家庭の窓
|
情報化社会では,情報が剥き出しのまま伝わるようになりました。そのせいで送り手と受け手のミスマッチが起こります。手紙であれば,受け手を特定できますし,封によって内容が守られています。それは配送のプロセスが信頼できるネットになっているからです。ところがインターネットの配送システムは,メールが受け手を指定できるにしても,途中がオープンになっているために,拾われることに対する防御が不完全です。拾われてもいいように,暗号化するしかありません。サイトに至っては,玄関を開けっ放しにして剥き出しの状態ですので,だれでもアクセス可能です。悪質な訪問者や悪質な運営者の思うがままです。
子どものケータイが問題になっています。大人は携帯電話と考えていますが,子どもにはケータイであり,ネット機器なのです。ネットの危ういオープン性を弁えていないので,送り手としても受け手としても,全くの無防備です。ネット世界では,送り手も受け手も共に相手について想像することが基本マナーになります。その相手が多様な人,つまりいろんな大人がいるということが問題です。
子どもの付き合いの範囲にいる大人,親や先生をベースにして思い巡らしても,有効な想像にはなりません。いわゆる世間を知らない子どもには,無理なことです。そこで,教えておくことは,知らない世界は怖いということです。昔,女の子に親は「男はオオカミ」という警戒の言葉を教えていました。先ず用心することから,世間に入っていくという知恵です。
知らない世界は怖いということを教えるには,子どもの知らない世界があるという子どもの限界を悟らせる必要があります。自分は世界のことを分かっているという思い上がりが危険です。子どもがそう思ってしまうのは,狭い閉じた世界に暮らして,テレビという狭い窓から世間をのぞいているせいです。情報が一日中降り注ぐ日常の中で,情報の偏りを見抜くことは困難です。たとえば,毎日視聴しているテレビ番組は好みに縛られて片寄っているはずですが,当人はそのことに気付きません。世間を広く見ようとしていないのです。
結論から言えば,今の子どもにはケータイは重すぎます。もっと軽いオモチャにした方がよいようです。子どもが大人の道具を使うのは十年早いのです。もしも使わせるなら,大人の管理の下でなければなりません。ケータイ問題については,大人の想像力の発揮が急務です。
情報社会では,想像するという力を使わなくなります。何でも分かってしまうという錯覚がもたらされます。検索すればそれらしい情報が多量に集められるので,検討する手続きが疎かになります。分かったつもりでしかないのです。見かけの便利さに惑わされずに,情報をきちんと扱う術を持てば,とても有効な情報社会です。急激な発展について行くには,それなりの努力が必要です。文明の利器は,使い手がそのときそのときの身の丈にあった付き合い方で楽しみたいものです。
|
|
|