家庭の窓
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10月の風物として,大好きなコスモスが秋風にそよぐ色絨毯があります。見た目の風物ですが,もう一つ,嗅ぐ風物としてキンモクセイの香りがあります。近所の家々にそれぞれ植えられているので,ちょっとした香りロードになっています。我が庭にもあるので,玄関の扉から出ると,フーッと薫ってきます。視覚の風物ほどには強烈ではありませんが,嗅覚の風物もあることを知らせてくれます。
キンモクセイの香りの好き嫌いの意見を尋ねて紹介しているマガジンがありました。好きではないという意見の中に,トイレの臭いだからというものがありました。トイレの嫌な臭いを消すために良い臭いで上塗りしているのですが,その生活習慣が良い臭いをトイレに結びつけ,トイレのイメージを引き出してしまったようです。逆効果というか,慣れによる連想のミスリードが定着したのです。
このような逆転現象は,人工空間での暮らしでは起こりうることです。人工的なキンモクセイ擬きの香りを初体験し,それを「キンモクセイの香り」という名前で表現することを覚えます。キンモクセイという樹は実在していないのです。もしも,キンモクセイが放つ実際の香りを嗅いだ経験があれば,この臭いは「キンモクセイ」の香りであると認知され記憶されます。キンモクセイが実在するのです。
嗅覚は同じ臭いと判断するのでしょうが,どうもその判断はかなりいい加減なものです。嗅力が現在の人は衰えているようです。嗅力という言葉があるのかないのか知りませんが,視力や聴力があるのですから,あるはずと思います。臭いを感知しても,それがどのような臭いであるかという意味を理解する力がなければ,臭いの世界を誤解することになります。たかが臭いですが,大事な五感の一つです。
ことは嗅力に限りません。視力や聴力についても,その力量はかなり減退しています。見ていても理解しない,聞いていても覚えていないといういい加減な感覚が普通になっています。文章を読まなくなったという傾向も,視力の退化ということができます。その流れの一つとしてコミュニケーションのもつれが起こります。単語の交換はできますが,言葉を連ねた文章による大きなイメージの交換はできないのです。聴力不足です。
感覚を磨くのは,現実の世界との直接のふれあいです。情報化社会では,現実世界と感覚の間に文明の機器が介在し,間接的な認識に減退します。さらには,主として視聴覚の世界なので,嗅覚と触覚はおざなりになります。また,味覚も対象が美味しいものに片寄っているので,甘やかし放題です。
汗の臭いにまみれ,風雨の厳しさに触れ,凍えて,疲れて,それでも耐えて立ち向かうとき,力が培われるものです。安楽な暮らしは,五感を退化させる道であることを再確認しなければなりません。そう思いながら,世間の風の厳しさを,これも生きる力の修練と受け止めて,やせ我慢をしています。
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