家庭の窓
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パソコンのデスクトップ画面に,馬にまたがった連れ合いの姿がクローズアップされています。ある会の代表として阿蘇に出かけ,草千里の一角をテクテクと馬上の散歩をしたときの姿です。鐙に足が届かず不安定であったことを,帰宅したときに語ってくれました。普段の連れ合いの挙動からすれば,馬に乗るというのは冒険です。誰かに誘われたのではなく率先して乗馬したそうで,雄大な阿蘇の雰囲気に背中を押されたのでしょう。
高齢期に入ると,人は無邪気さを取り戻していくようです。あれこれ考えるということが億劫になって,思考回路が単刀直入になります。それがカワイイ年寄りと見えるような言動になればいいのですが,場面によっては邪気が勝って,気短になるということもありますし,堪え性がなくなります。特に言葉遣いには気をつけないと,直截な物言いになり,人との間が気まずくなりかねないという自戒をしています。
ある講演で,高齢者は元気だから活動できるのではなく,活動するから元気になるのだという話を聞きました。人は何かに向かって活動することから元気を引き出しています。子どもたちが何か面白いことはないかなと待っている間は,面白いことは見つかりません。自分の手の届くところでできることをすることで,面白いことを掘り当てることができます。活動するから,その渦に周りからいろんなものを吸い込んでいくことができます。
元気をもらうという言い方があります。周りの元気に誘われるということもありますが,元気を出すときには,その元気を受け取ってくれる人や物事が必要になります。どんなに元気を発揮したとしても,独り相撲では不完全燃焼になります。最もよいのは,人との関係に開放性を保つことです。人とのかかわりの中で活動すれば,元気の出口が確保されます。働くという立場では否応のない活動があるので,意識することもないでしょう。しかし,定年という解放の後では,人間関係がぷつりと途切れるので,深刻な状況に陥ります。
周りの人や物・ことに対する関心を持ち,関わっていこうとする意志を呼び覚ますことが高齢者には望まれます。してみようという好奇心ということもできます。幼い時代にそうであったように,無邪気さを好奇心に結びつけるようにすれば,新しい世界に踏み出すことができますし,新しい活動が拓けます。
物事には二面があります。どちらを選ぶか,それはその人が決めることであり,誰のせいでもありません。人生を選ぶのは自己責任です。そうであるなら,目先のことに惑わされずに,前向きに踏み込んでいく方がいいようです。お伽噺の教えの通りに欲を出さずに・・・。
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