《うれしさは 出番があって 生きられて》

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 飛騨高山に里帰りしたときに買ってきた赤い顔したお守り人形が,パソコン横の壁にぶら下がっています。高山には医者であった父が赴任していたので,一応親もとに行くことを里帰りと言えば言えるのですが,育った土地ではないので,里とは言えない変な感じです。このお守りは何年も車のダッシュボードにぶら下がっていたのですが,日差しに痛めつけられてすっかり疲労してしまったので,そばに連れてきて安穏な場所で働いてもらっています。
 飛騨のお守りも見知らぬ土地に連れてこられて,勝手が違うので苦労していることでしょう。たまには飛騨に帰って気力を蘇らせるときを持ちたかったかもしれませんが,かなえてやれずに働かせ放しで可哀想なことをしていると思っています。お守り人形は何にも言いませんが,お互いに頑張るしかないかなと語りかけています。
 お守りではない人形が,あちらこちらに飾られています。学会出張した折に,連れ合いへのお土産として購入したものもあります。慶事のお返しとして頂いたもの,父から受け継いだもの,いろんな御縁で寄り合って暮らしています。狭い家なのでゆったりと落ち着かせる余裕もなく,飾り戸棚からあふれて,本棚の狭い隙間にびっしりと並んでいます。
 一つ一つは暮らしの歩みとつながっていて,記憶のファイル名の役割を果たしているようです。歩みを振り返ることには大して興味がないので,あまり意識してはいませんが,暮れの掃除でほこりを拭いてやるために手にしたとき,記憶がふっと呼び起こされます。しばらくすると,またしまい込まれてしまいます。普段目につくところに佇んでいるのですが,意識されることもありません。忘れられています。
 生活必需品は古くなったり破損すると,あっさりとゴミに格下げされて廃棄処分となり,新しい品と交代させられます。ところが,必需品ではないものは,居場所がある限りは,いつまでも居座ることになります。必須の用を持たないということは,役に立たなくなるということもありません。あれば邪魔になるということさえなければ,在ってもいいよという許容範囲で,生き延びていきます。
 戸棚の奥の方には,在ることさえ知られなくなったものが潜んでいます。いつか役に立つことがあるかもしれないという僥倖ともいえる出番を待ちながら,そのままお蔵入りする悲運に会います。時々は棚卸しをすることが必要です。いくつかは,出番を与えることができます。身近にありながら,忘れられているというのは寂しいものです。
 年の節目に身の回りをじっくりと見渡して,状況を動かしてみることもあっていいのでは思っています。モノがうれしそうにする表情が見えるからです。

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(2009年01月11日号:No.459)