家庭の窓
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ヘッドフォンステレオの登場で歌が変わったと,作詞家の阿久悠さんが語っていたそうです。まちに流れている歌がなくなり,皆が共有する歌ではなくなり,一人ひとりの歌になったというのです。同じような感じを以前から持っていました。宴席での歌が,かつては手拍子で皆が参加して聞いていたのですが,カラオケが登場してからは、歌う人だけの歌になっていました。聞く人がいなくなり,自分が歌う曲探しに向かっています。自分の歌以外のものが聞こえなくなっています。
歌の世界が,我々の世界から我の世界に縮小したようです。歌がコミュニケーションの道具ではなくなり,独白になっています。普段の言葉遣いが聞かせるものから,つぶやきに近くなっていることと呼応しているように思われます。歌にしろ言葉にしろ,口から発するときには,誰かに向かって発せられるものであったはずです。受け止めてもらうことが前提として意識されていました。今では,聞いてもらうという意識が感じられません。
人のつながりが希薄になったということが言われます。つながろうという意識がなくなっているのではないでしょうか。つながろうとすると,幾分かは他者と合わせる部分が出てきてしまい,そのために自分らしくなくなると思っているようです。あくまでも自分の世界は自分だけのものであるべきと頑なに信じているのかもしれません。それで幸せならいいのかもしれませんが,一方で分かってくれないという寂しさもかこっているようです。
家庭という場での関係も薄くなってきました。生きていく基本である食が,コンビニエントな食の流通ネットワークによって,個人と社会という直結状態になりました。食事を作って準備をする手間を省くことが可能になりました。パックを買ってきて,食べたらポイというパターンがあります。他種類の弁当や,カップ類でとりあえずの食は可能です。包丁が不要な食生活,チンするだけの暮らしでは,誰の手も借りずに自分だけで生きられるという錯覚を植え付けていきます。
自分だけで生きていけるという孤独化は,お金があればという条件付です。金次第という生き方はどこか変です。食の偽装も,金を儲けることが優先されて,食をする側の人を一顧だにしていません。我の世界に生きているために,我々の世界の中にいるという感覚を失っています。人は1人では生きてはいけないという当たり前のことが,行動を律するものとして機能しなくなっているようです。
もちろん,世間はこのような一面だけではありません。部分を見て総体の特徴とするすり替えは,注意する必要があります。とはいえ,身体の一部に痛みがあると,全体の動きまでもが不自然になるのが組織の特性です。どこか変ではないかという直感は,年末の今年を表す漢字として「変」を選んだ庶民の鋭さだと思われます。感じるだけではなく,変になったのは何か,それを見極めようとする考察を進めることが大人としての知恵でしょう。
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