《うれしさは 遠く遙かに 同士居て》

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 We can do, we will do. (我々はできる,やろう)。A new era of responsibility.(責任の新しい時代)。 バラク・フセイン・オバマ米大統領の演説の中で語られたキーワードです。2008年の漢字が「変」でしたが,政治・経済・生活・環境の面で望ましくない変化に見舞われている中で,よい方への変革を望みたい思いが反映しているのでしょう。
 世間がミーイズムの嵐によって変になっているので,ウィイズムによって世直しをしようという動きが見えてきます。私がという私意識から,私たちがという私たち意識に改変することが求められます。そういわれても,私たち意識はほとんどの人が持ち合わせています。いまさら,私たち意識に変えることもできません。そんな声が聞こえてきます。もう少し話を進めておく必要がありそうです。
 私たちという範囲を考え直さないといけません。普通には,仲のよい仲間内が私たちです。しかし,求められている私たちとは,私と何らかの関わりのある見ず知らずの人までを含めたものです。袖振り合うも多生の縁というつながりの中にいる人たちが私たちなのです。これは新しい考え方ではなく,ある意味ではかつての世間を創り上げていた古い知恵なのです。人に対する深い思いやりがあふれています。だからこそ,情けは人のためならずという世間への信頼を持つことができたのです。
 生活習慣病という言葉があります。日常生活の些細なスタイルに少しだけ偏りがあるとき,人が備えている健康維持機能に気付かれないままに不都合が生じます。ゆっくりとした逸脱なので,感知できません。同じことが,思考についても起こるはずです。時代の精神が変遷するのは徐々にですが,あるところまで来たときに敏感な人が言葉を使って顕在化してくれます。直感として何か変だなと感じている人たちが,その言葉によって一気に腑に落ちることを知ります。時代の雰囲気が一歩進んだというキーワードになります。
 暮らしを動かしている個人の指針のようなものがぶれると,世間という集合体の中で修正の力が働きます。ところが,皆で渡れば怖くないということが起こってくると,慣らされていき,世間の指針がシフトしてしまいます。しかし,指針はあくまでも思考上の虚構なので,自然的な実態との整合が取れなければ,破綻するしかありません。人の暮らしの実際も自然から浮き上がるわけにはいきません。人そのものが自然なのです。考える生物種としては,思考習慣病があるということに気付いていなければならないようです。
 アメリカの大統領が何を言おうと関係ない,それが普通です。しかし,同じ時代を生きている者同士という共通項を想定すれば,多生の縁を認めることは可能です。同時代を生きている私たちなのです。大統領と一市井人という環境の違いを背景として,何を感じて何を考えているかということに対して,複眼的な認識を紡ぎ出すことができます。たまに日米をつないでみながら思考することができるのは,うれしいことです。

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(2009年02月08日号:No.463)