《うれしさは 下手な考え 彷徨って》

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 所用があって近くの銀行に自転車で出かけました。2km弱の直線道路の半分の距離です。用を済ませての帰り道です。ペダルをこぐ足が重いことに気付きました。平坦な道なのですが,どうもわずかに上り坂になっているようです。車で走っているときや歩いているときは,ほとんど感じないほど緩やかです。自転車で走るときに感じるのはどうしてなのか,重いペダルを踏み込み続けながら考えました。
 歩行と自転車で違うのは,一踏みの距離です。歩くときの一歩と自転車を踏むときの一歩とでは,移動距離は段違いです。簡単に言えば,1mの距離での登りが10cmとして,勾配が同じなら,5mの距離では50cmの登りになります。自転車の方が一踏みで登る量が遙かに大きくなります。電動アシストのないママチャリなのでもろに負担がかかってきます。
 速度の違いという面から考えると,自転車の方が早い分,同じ時間の登り量が増倍加することになります。一気に登るというパターンです。全体を見ると,歩いても自転車でも登り量は同じはずですが,負荷の感じ方が違うのは,人の感覚機能が単純ではないということでしょう。帰り道は考えることがないので,つまらないことに気が取られます。
 前にも別の道で同じ経験をしたことがあり,このコラムにも書いた覚えがあります。ただし,今度は少しばかり考えることが前に進んだようで,一見分析的になりました。坂道の感じ方を考えたところでどうなるものでもありません。下手な考え休むに似たり? 「それで?」と問われても,「別に」と答えるしかないようです。考えることにはじめから目的がなければならないこともないでしょう。
 身の回りのあれこれを「どうして?」と考えている内に,さまざまな歴史的な発見が生まれてきました。考えることの出口は,後から見つかる方が多いかもしれません。最初から考えつくことは改良のレベルになりがちです。発見や発明という飛び越した先にあるものは,考えに迷い込んで行かないと見つからないものです。闇雲に思考の世界を彷徨うことも大切です。Serendipity(セレンディピティ)という言葉があります。求めずして思わぬ幸運に巡り会う天性,ものを見つけ出す不思議な能力という意味です。元はゴミから宝を見つけるといった意味のようです。
 ゴミはゴミでしかありませんが,そこにとんでもないものが潜んでいるかもしれません。考えが足りないから,宝をゴミとしか見ることができないということです。人は未知のものは理解不能であり,無用なものと見てしまいます。無駄であるかどうかは,簡単に決めてしまうわけにはいきません。あれやこれやを特別な目的なしに暇に任せて考える,そんな暇つぶしができることをうれしく思っています。

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(2009年02月15日号:No.464)