家庭の窓
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秋深し隣は何をする人ぞ。地域の人付き合いが希薄になったいる状態を言い表すために,「隣は何をする人ぞ」というフレーズがよく使われます。芭蕉の句は違う意味合いを持つので,例えとしては,間違っています。何が違っているのか,どうしてそのような間違いをするのか,考えておきましょう。
奥の細道の旅で芭蕉が宿に泊まります。隣の部屋に誰か旅人がいる気配が伝わってきます。秋の夜は人恋しさの情を醸し出します。隣の人はどういう人なのかと気になります。できるなら,共に語り合いたいという思いがあるのでしょう。隣の人に対して大いに関心があるのです。一方で,今の人は,隣に住んでいる人のことをまるで知らない,他者に無関心な生活をしていると咎める意味で使っています。逆転しているのです。
現在の暮らしの場は,プライバシーの確保という名目で,自他の間にしっかりとした遮蔽壁を置くのが当たり前になっています。昔はもちろん壁もありましたが,ふすま一枚という曖昧な壁も普通でした。完全な遮断ではなく,ゆったりとした区分けです。襖や障子の向こうのことは,聞こえても聞こえないものとみなすという心の壁を併せ持っていました。
逆に見れば,隣とは幾分かはつながってもいました。隣を排除するのではなく,つながっている向こうという気持ちがありました。この環境の違いが,隣の人に対する気持ちの距離感に反映しています。隣人に対するイメージが,すぐそばにいる人ではなく,気配すら感じないほど遠くにいる人になってしまうと,関心の持ちようが違っても仕方のないことでしょう。
俳句の心情を読まずに字面を今の時代の中でそのまま読み取ると知らないままに間違いが起こります。隣という言葉が何を指しているのか,場所や時代の背景によって異なるという状況に思い及ぶ力が必要になります。隣という言葉の意味が違っているのです。
家の形にして,ベランダがありますが,かつては縁側や濡れ縁でした。縁側は他人が一時的に使ってよい部分であり,家の内でもあり外でもあるという両面性を備えた場所です。今は,内外がきっちりとサッシドアによって区別されています。寄りつく場所を失った家は,孤立しています。いきおい,そこに暮らす間に気持ちも他者を峻別する遮断幕を帯びるようになります。プライバシーを守るという姿勢は,閉じこもるという形態でもあるのです。
閉じこもらざるを得ない不信に満ちた時代なのでしょう。人の移動距離が伸びて,生活圏が拡張し,見知らぬ人ばかりに囲まれるようになりました。かつてのように慣れ親しんだ人に囲まれた暮らしとは違います。信頼という基盤が薄れてしまったのです。
でも,不信の中での暮らしは心穏やかではありません。信頼を紡ぐ意志を持つようにしなければなりません。自分たちが作り出している世の中なのです。難しいことですが,努力しないのは情けないことです。できることが何か,それは隣人に関心を持つことの中にあるような気がします。隣は何をする人ぞ。その言葉に共感できるようなゆとりを思い出したいものです。
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