《うれしさは 花と語らい 清々し》

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 わが町では,5月10日(日)にバラまつりが催されました。大きな池を中心にした公園の中,そこかしこにバラが植えられて,散策の小径を飾っています。公園だけではなく,庁舎前の庭などもちょっとしたバラ園になっていて,いろんな種類のバラを楽しむことができます。いろんな種類といっても,素人には色の違いを見る程度のことなので,本当に楽しむことにはなっていません。猫に鰹節ではなく,猫に小判といったところです。
 連れ合いが,近くに出かけたついでに撮ってきた写真を載せておきます。

21年5月16日のバラです

 連れ合いは,白いバラが好きということで,カメラを向けたそうです。人は花を見て和み,その美しさに魅せられます。花は何も語らず凛として鮮やかな色彩を見せているだけです。人は何を感じ取っているのでしょう。単に色彩を見て楽しんでいるのではないようです。花は受粉を虫たちに手伝ってもらうためのシグナルです。人はお呼びではありません。人は関係としてみると,横恋慕していることになります。
 受粉して果実を実らせ次世代への種子を創造するプロセスが,花によって正に始まろうとしています。命の連鎖という花の生命力への共感が,人の心の奥にある本能に反応し,その感情の高揚を,美しさと呼称しています。花はほんの数日限りですが,命は連綿と続いています。その崇高さを象徴しているものとして,人は花のメッセージを読み取っています。
 ことさら華やかな花を咲かせることなく,地味な形で自ら生き続ける樹木があります。数百年風雪に耐えて立ちはだかっている姿の前で,人はその力強さにあこがれながら,畏れさえ感じます。人は考える力というやっかいなものを持ち合わせ,自然を支配しているかのような錯覚に包まれています。その延長線上で,命を自分の命と意識する傲慢さに捕らわれています。しかしながら,目の前の樹木に直面するとき,自分の命が短くはかないものであることに気付き,愕然とします。恐ろしくなってきます。
 その経験をすると,命の不思議さということを考えさせられ,自らの人生という時間を超えた大きな時間の中にある受け取った命を悟ります。それでも自分という個にしがみついたままであれば,儚さだけしか見えません。目の前にある巨大な命と素直に触れ合うことで,人が感じ取っていることは,環境の変化を堪え忍び,今を精一杯に生きているという一点です。そのことに共鳴できるとき,生きることへのエールを受け取ることができます。
 命への畏怖や自然の計り知れない大きさを見失っていると,人は人一人の小ささに気づくことなく,限りなく傲慢になっていきます。祈りということを忘れたことも,その一つの表れです。庭園の花を見て楽しむ,そこに止まってしまうことが,人の奥ゆかしさをはかなく散らすことになりそうです。花が伝えてくれるメッセージを真摯に読み解くことが,花の美しさに対する丁重な返礼になります。花と語り合ううれしさは,いつも清々しいものです。

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(2009年05月31日号:No.479)