《うれしさは ことの流れを 解きほぐし》

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 ある組織の総会で事業に対する討議が行われました。いろんな年代に対する事業について,一部の年代に対して所期の目的にはそぐわないことの鋭い指摘がなされました。同感する部分もありました。それに対して,事業を推進をしている立場からは,事業そのものの目的を再確認すべきであるといった趣旨の発言がなされました。それも忘れてはいけないなと聞いていました。どちらにもそれなりに同感しながら,話に引きずられている自分を感じていました。
 発言はどちらも間違ってはいないと思います。ということは,同じ事業を見る目が違っているということです。全体を見るか,細部を見るかということです。討議の場では,一応司会がいますが,二つの意見が出た時点で,その意見をどのように活かしていくかけりを付けるべきです。しかし,そのまま言いっぱなしで終わり,次の意見を求める流れになりました。討議が何のために行われているのか,きちんと押さえた進行を司会はして欲しいものです。
 物事は完全無欠ということはありません。大筋でうまくいけばいいのです。うまくいかない部分が悪い結果を招くなら問題ですが,無駄になるということであるなら,コストとして想定内のことでしょう。無駄があるから事業全体の意味がないということにはなりません。普通なら無駄を省くことを考えればいいのでしょうが,件の事業はその無駄を承知で広く行うことに意味を持っているものです。
 討議の目的に対する異論も表明されました。単なる討議をするのではなく,事前に然るべき会議で十分に協議をした上で,総会では議決をすべきではないかという,手続きに対する意見です。意見を集約した結果を総会で議決することによって重みが加わるということです。それも一理あるなと思われました。実のところは,事前に行われた然るべき会議では,事業に対する意見を集約することが総会で討議を行う主目的とされ,議決の必要性に対する認識は全くありませんでした。有り体に言えば,総会で議決する筋合いのものではないという暗黙の了解がなされていました。
 討議に入る前に,どういう意図で意見を求めているのかという説明をすべきでした。確かに時間に追われていたこともありましたが,進め方に不十分さがあったということになります。提案している司会者は,意図を十分に分かっていたはずですが,自分が分かっているから,皆も分かっているという思い込みがあったようです。組織活動を指導する者が陥りやすい錯覚です。懇切丁寧ということは,今更そんなことから話さなければならないのかという所に立ち戻ってみることです。明確に意識しているのではなく,なんとなくそうなっていることについては,より一層十分に考えてきちんと意識して説明をする必要があったということです。
 会議の顛末を振り返ることで,自分なりにあれやこれやとけりを付けることができるのは,経験を知恵に変えていく営みとしてうれしいことです。

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(2009年06月21日号:No.482)