《うれしさは 絆の中に いる自分》

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 このところ,テレビで昭和30年代のあれこれが取り上げられています。敗戦後の0から1までの立ち直りを終えて,1からスタートした新しい時代への歩みが始まったのですから,今の社会の出発点として振り返られているのでしょう。例えば,車やテレビという物が生活の中に入ってきた時代です。
 1世代が30年とすれば,およそ2世代前です。祖父母の育った時代までは,何とか実感できるということでしょう。もう一つ前の世代である戦争時代は,今の人には実感を伴わなくなっています。
 家をつぶすのは3代目といわれます。普通には,苦労を知らない3代目が,社会の変化を読むことをせずに,社会を作るという気概も失うためであると思われています。いわゆる世間知らず,今風にいえばKY=空気を読めないということです。言い換えると,自分中心に物事を捉えるわがままさが,社会性を阻害することになります。
 今の時代を見渡すと,いかにも3代目の時代です。個人的な世界に閉じこもって,皆でという発想がほとんどありません。一人で楽しむために生きているといった風情です。コミュニティも失われている今,皆でという社会的な雰囲気も消えています。社会は人と人がつながっていてこそ機能します。人とのつながりを拒否すると,それは隠遁生活になります。かろうじてカネでつながる商業社会だけになります。そこには,心のつながりはありません。冷たい社会です。だからこそ,偽装をしてもいい,誰でもしているという発想や,ムシャクシャして誰でもいいから殺したいという無軌道ぶりまで飛び出しています。
 人のつながりを絆と呼びます。絆は機能として束縛を伴います。それが自由と衝突します。人は生まれながらにして自由である。ならば,絆は人として消さなければならないものとなります。その単純な論理の段階に止まってよしとする分別の未熟が見られます。白黒を付けるという思考では,色合いを抹殺します。多様な価値観を持つことが豊かさといいながら,それは自らの偏狭さを言い換えているに過ぎません。自由の形にはいろいろあるといいたいのでしょうが,それは自分勝手でしかないということに気付く思慮が必要なのです。
 自由は求心力を持ちません。全体としてはバラバラな状態となり,収拾がつきません。収まるためには求心力が不可欠です。絆は求心力です。自由と抵触しますが,全体としての収まりを実現します。社会という収まりは,人と人が緩くつながることによって実現します。絆が自由を制限する負の事象と認識するのではなく,自由を加速する正の事象と把握することです。人は生かされているといいますが,絆によって生きる力を得ているのです。自分は自由であると思っていたとしても,実は自由を与えられているのです。絆を失うことで,自分が見えなくなるということです。

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(2009年07月19日号:No.486)