家庭の窓
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雨の中,葉のない木の枝にトンボが連なってぶら下がっています。晴れの時は,田んぼの上を元気に飛んで,休んでいる姿を見慣れていましたが,土砂降りの中では飛ぶのを控えて,晴れ間を待っているのでしょうか。ぴくりともせずに,雨に打たれて濡れています。
濡れている姿を見ていると,可哀想になります。そばに傘代わりになる大きな葉を持った木があるので,陰にとまれば雨をしのぐことができるのに思います。こうした同情は,自分の身に置き換えて自分だったらどうなのかと考えることから生じます。雨に打たれているトンボを見ていて,どうしてもっと居心地のよい所に避けないのかと思うのも、自分だったらそうするのにと考えるからです。そういう知恵のないトンボを愚かだなと思うのも,自分に比べているからです。
トンボにすれば「そんなの関係ねえ」ということです。雨に打たれることを嫌なことと思うことはないでしょう。思うという思考力自体がないでしょう。人が濡れるのを嫌うのは,服がびしょびしょになるから気持ち悪いということです。トンボは服を着ていません。人は裸身では濡れることがありますが,タオルで拭き上げます。部屋が濡れるのを嫌うからです。トンボはタオルなど使ったこともありません。拭くという経験がなく,その必要もないでしょう。人がトンボと同じように裸身で自然の世界に生きているなら,濡れることは普通のこととして、大して気にとめないでしょう。
人が自分のこととして,トンボのことを思いやることは無理かもしれません。生き方が全く異なるのです。生きていることには共感が可能ですが,生き方について思いやることは見当外れです。相手の身になるということは,単純に今の自分を重ねることではなく,自分を変えることが求められます。とても難しく,ほとんど不可能ですが,そうしようとする覚悟がなければならないということです。
人に対する思いやりも,自分が嫌なことは人にするなとか,自分がうれしいことを人にせよといったことが言われます。同じ人間だから,自分と人とは置換可能だと思われます。所が,ことはそう簡単ではありません。性別の違い,年齢の違いといった明確な違いの他に,境遇の違い,価値観の違い,状況の違いなど,同じ人間などいません。だからこそ,同じ学校や会社,同じ年齢,同じ性,同郷,同趣味など,同じ所を見つけて,気持ちを通い合わせていきます。共感できると信じ合えるのです。
同じ所探し,それが親密さの鍵である一方で,その他の大部分の違いを認め合うことがなければ,人はつながることはできません。今の世情は,違いを許さないという偏狭さがあるようです。同じ部分でつながることが100%可能だと思い込んでいるようです。だから,2割の違いでも許せなくなります。あんな人だとは思わなかったと嘆くことがあったら,それは違いを見ようとせずにすべて同じと勘違いをした自分の浅はかさを嘆くべきでしょう。
トンボが可哀想とか,バカだなと思っていたら,人との付き合い方がまだ浅いと判断した方がいいでしょう。連れ合いとは似たもの同士と思うこともある一方で,男女の違い,環境の違い,価値観の違いなど,違いも山ほどあります。その違いを受け入れているから,自分以外の人に対する視線を優しくすることができます。単純に自分勝手な思いやりを押しつけない余裕を持ち続けることができています。違うからおもしろい,楽しいことです。
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