《うれしさは 本質論を 語るとき》

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 依頼を受けて関わっている役がいくつかあります。それぞれの領域において,現状を改善するという協議が行われています。その協議は終わりのない協議となります。結論が出ないという意味ではなく,状況が動いているために,常に修正を余儀なくされるからです。局限すれば,今日の手立てはそれでいいが,明日になれば通用しなくなるので,明日もまた協議をしなければならないといったことです。
 その協議の流れを概観すると,理想主義が衰退しつつあるという印象を受けます。本質論がなくなって,役に立つ理論が求められています。確かに本質論は抽象性が濃いので,現場にとってはもっと具体的な理論を必要とするという背景があります。その事情は理解できますが,本質論を棚上げして協議をすると,議論百出,価値観の多様化という拡散状態にはまり込みます。価値の統合や優先順位を決めるために,本質論は不可欠なのです。
 視点を変えると,目的を共通理解することなしに,目標のあれこれを協議しているのです。何かの事業計画を協議する際に,事業をすることを目的化してしまい,何のためにその事業を行うかという本質的な目的が論外に押しやられています。個々の事業それ自体で完結するのではなく,事業がつながることでさらなる総体的な目的の実現が期されなければなりません。そういう大きな本質論を語れる人がいなくなっています。
 総論賛成,各論反対? 協議の様子を表す言葉があります。協議の筋を本質論で固めても,個々の具体的実践段階では現実とのすり合わせが必要となり,そこに少なからず軋みが生じます。現実との軋みがあるから,状況の改善が進むはずです。その軋み・痛みこそが大事な目標であるという納得・覚悟を得るために本質論が力を発揮するはずです。
 平穏な時代もしくは低成長時代では,軋みは忌み嫌われます。保守が望まれて,改善する必要性があったとしても,それは他に責任が転嫁されて,自らの課題にはなりません。暮らしがいまい一つ豊かにならないのは,政治のせいだというわけです。本質論が語られても,それは自らのことではなく,責任を負うべき他を特定し押しつけるための道具でしかありません。
 本質であるということは,あまねく適応されるものであるということです。自他共に関わるものでなければ,本質論とはなりません。時代を作っているのは,すべての人であることを忘れてはなりません。「この仕事 皆でやろうと 人に投げ」という川柳がありました。本質論を語ることは,自らに向かってくるので,なんとなく敬遠されるのでしょう。その自らに起こるであろう痛みを引き受ける覚悟がなければ,本質論を語れません。そういう勇気を発揮する人が時代を動かしていきます。大それたことはできませんが,身の丈にあった本質論を語っていきたいと思っています。それが,これからの時間に託された運命といえば大げさですが,やるべきことではないかと感じています。

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(2009年10月11日号:No.498)