《うれしさは 若さの踊り 感じ入る》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 10月の日曜日,人権擁護の啓発イベントのために,大型ショッピング施設に出かけたときのことです。休憩時間に外の空気に触れたくて建物から出てみました。玄関前の広場の方角から若者のスピーカーによる歌声が響いてきました。人の輪ができているので,そばに近づいてみると,地元の大学の祭りのアピールをしているようです。音楽に乗って,若者のグループが入れ替わりで踊って見せています。
 たまたま見かけたグループは,オルゴールの音色に合わせて,機械仕掛けの人形が動いているような振りで演舞しています。動いては止まり,止まるときにかすかに揺れるといった仕草,一人ひとりの動きが時間差になって続いてみたり,ガクガクとした動きの踊りです。テレビで見かけるマイケル・ジャクソンの踊りの部類のようです。目の前で若者が演じている踊りを見ながら,何を表現しようとしているのか,共感の感度を上げてみましたが,同調できませんでした。
 「感度を上げる,同調できない」という言い方をしました。人の行動を器械に対する用語を使って表したことになります。表現の手法としての比喩ですが,若者の踊りも機械仕掛け擬きの動きを使って人の思いを比喩しているのでしょう。複雑な思いを伝える精緻な手法ではなくて,直感的に分かりやすい器械表現に翻訳しているつもりのようです。流れるような動きではなく,ぎごちないブツブツの動き,その不器用な動きと,ああでもないこうでもないと彷徨いながら展開していく感情の流れとが妙に一致しているのかもしれません。
 生きていくことはスムーズに流れていくのではなく,あちらこちらにぶつかりながら,ガクガクと一歩一歩進むしかない,それでもとりあえずは,前に進んでいる,件の踊りはそのような表現なのかなと,古ぼけてきた傍観者は見ています。繊細な人間がなぜ中途半端な器械の真似をするんだ,そんな第1印象を持っていましたが,そのぎごちなさが大事なアピールであるようだと思い直しています。
 若者の表現は直截なものです。しかし,真っ直ぐであるということは,なにがしかの部分をそぎ落とすことになります。例えば,好きですかという問に答えるとき,100%好きな場合もありますが,実際は70%好きという中途半端なケースが多いでしょう。どちらかいえば好きかなということです。好きと言い切ってしまうと,幾分かは違うという陰を飲み込まざるを得ません。そこに気持ちの上ですっきりとしないぎごちなさが残ってしまいます。踊りのガクガクさと符合します。
 アナログな情感を今風のディジタル表現するとこうなる,そういうメッセージと受け取っておくことにします。当の本人たちは,感性にしたがっているだけだというかもしれませんが。表現手段という側面で切り取ってみると,ある意味が見えてきますが,それもまた一面でしかないという不完全さを免れません。終わりのないことにいらだつより,楽しんだ方がいいようです。思考のラップです。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2009年11月01日号:No.501)