《うれしさは 危ない橋は 渡らない》

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 新型インフルエンザが近くにあるということで,人の集まる行事が次々に中止されています。一方で,実施されている行事もあります。主催者にはどちらを選択すべきか迷いの多い状況になっています。これまでの様子を見ると,参加者が会員に限定されるような団体主催の閉鎖的な行事は実施され,一般の人が参加するような開放的な行事は中止されています。団体行事では,主催者が体調不良である会員に出席を見合わせるように指示することが可能だからでしょう。
 一般の人が参加できる事業をやむなく中止した主催者が,八つ当たりのように他団体の事業も止めるべきであると言いたくなる気持ちも分からないではありませんが,主催する者の責任の範囲が違うことを弁えてもらいたいものです。ところで,中止をした主催者は果たして中止をした意味があったのかという迷いを抱えているはずです。中止しなくてもよかったのでは? おそらくそんな声も出てくるはずです。
 悪いことが起こらないように手を打ったとき,悪いことが起こらなかったとしたら幸いです。しかし,何かしら割り切れ無さが残るはずです。それは,手を打ったから悪いことが起こらなかったのか,手を打たなくても悪いことは起こらなかったかもしれないという曖昧さが残ることです。何かが起こるような手を打って,それが起これば手立てが正しかったことになり,起こらなければ手立てが間違っていたことになり,成否が明確に判定できます。
 起こらないようにしたが,起こってしまったというときも,手立ての成否は明確です。最も困るのが,起こらないようにして,起こらなかったときです。昔から,無いということは確かめようがないといわれています。有るということは一つでもあれば有ることになりますが,無いというのは無限に探し続けなければ確かめられないからです。「絶対に無いか?,絶対に起こらないか?」という問に答えることは原理的に不能なのです。
 悪いことが起こらないように,そのためには起こりうる可能性を排除することが賢明です。あらゆる可能性を排除することは不可能ですが,できるだけのことはしておくべきです。それが功を奏したかどうかということは問題ではありません。たとえ無駄なことであったとしても,それを確かめる力を人は持っていないからです。やるべきことはやった,それでいいのです。後は神の領域として,ひたすら信じることにしましょう。
 インフルエンザのように,人間世界の外からやってくることについては,人智は無力とまでは言えないとしても,かなり大きな限界があります。何時誰にどのように感染するか特定することができない以上,感染と結びつく接触という状態を絶つしかありません。それだけでもかなりの効果があるはずです。一般的に病気の予防という営為が行き渡らない背景には,予防の効果を見極めることができないという事情があります。過小評価してしまうのです。
 用心してしすぎることはない。その程度の大らかさで対応しないと,自分の身ならず多くの隣人を守ることはできません。早めに蔓延の可能性を絶つという判断ができていることを,うれしく感じています。

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(2009年11月15日号:No.503)