《うれしさは 自然のままの いい加減》

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 ビジネス系の話題に触れているテレビ番組を見ているときに,アドバイスをしている識者の一言が耳に残りました。「100−1=」という問いかけがあり,その答えは「0」というのです。100の取引の中に1つの不祥事があれば,信用は0になるということでした。取引を生業としていないので実感はありませんが,部外者にも確かにそうだろうなと思われます。
 あるお店で買ったものに不良品が紛れ込んでいたら,二度と寄りつかないでしょう。そんな消費者の側の心理状態をビジネスの世界では常識としているようです。信用というのは厳格なもので,99%の信用はあり得ないのです。残りの1%の不手際は悪意と紙一重に受け取られます。製造者責任という概念が法の世界に取り込まれて久しくなりました。ただの不良品であればまだしも,それが危害を産み出すものとなれば,賠償を伴う大きな責任問題となります。
 ビジネスの世界だけではなく,例えば医療の世界でも,一つの不手際は,医療への不信を招きます。命に関わることですので当然です。医療技術や薬品は常に進歩しています。古いレベルのままでは,不手際とまでは言えませんが,最善を尽くしたということにはなりません。最低限世間一般の常識的レベルを維持し続けなければなりません。モノであれ技術であれ,間違いのないものを提供することが必須になります。100−1の1を限りなく0にする努力が求められています。
 ところで,世情の物事がすべてこのように厳しいということはありません。幾分かは不良な物事が紛れ込むものです。そこにリスクということを考える領分があります。人のすることには限界があるということを認めざるを得ません。最善が無理であれば,次善を達成しようとすることになります。誤差という許容領域を想定せざるを得ないのです。一般には,仕方がない,不可抗力と考える部分です。ただし,誰が考えてもという納得の条件が付きます。
 最近,世間が窮屈になったという印象があります。モノが豊かになってくると同時,消費者意識が高まってきました。その一つの傾向が1の不良を許さないということです。このビジネス上の意識が,生活領域のすべてに適用されてしまいました。生活領域には幾分かの許容部分があるのですが,それを社会正義という衣装をまとって糾弾するという風潮が強くなっています。理念上の正義ではあっても,適用不可であることを弁える嗜みを失っているようです。
 杓子定規という言葉があります。杓子を使って線を引こうとしても無理なことです。演繹すれば,食の世界の杓子で,他の世界の物事を測るのは間違っています。多様な物事を見るときには,それに相応しい尺度を用いることが肝要です。あらゆる局面で,自分は消費者であると思い込む狭量さから脱して欲しいものです。生活=消費という図式しか持てないとしたら,世間は住みづらいことでしょう。その住みづらさを世間が間違っていると思うようになると重症です。
 世間は不完全である。自分も他者も同じに完全ではない。そのことを受け入れながら許しを忘れないようにして心穏やかに暮らしたいものです。

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(2009年11月22日号:No.504)