《しあわせは 生きる自然に 触れていて》

 
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家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 窓の外の隣地は,田んぼです。昨年も書きましたが,稲の切り株から二度目の低い穂が出て,実っています。日が差すと,黄色のじゅうたんのように見えます。近くに猫を数匹飼っているお宅があり,その猫たちが20pほどの稲穂の原にかがみ込んでいます。時折,背伸びをするように辺りを見渡しています。一群のすずめたちが米を食べに舞い降りてくるので,待ち構えているようです。幸か不幸か,猫のいる間はすずめは近くに見あたりません。
 眼を細めて視野を絞って窓外を見ていると,黄色の草原に猫が数匹身を伏せている様子は,草原でライオンが獲物を求めて伏せっているような風景に見えてきます。実際に目にしたことはなく,テレビの画面で見たことのあるアフリカの草原を思い起こしてしまいます。猫は誰に教えてもらうのでなく,本能として狩りの行動をしていると思うと,不思議な自然を感じます。すずめと猫,捕食者と餌食という自然の弱肉強食の関係が,目の前に存在しています。
 傍観者の立場として,すずめが捕獲されないことをなんとなく願っています。もしも,すずめが猫に気付かないで田んぼに舞い降りようとすると,危ないと叫んで知らせることでしょう。猫の立場にすれば,余計な邪魔になります。猫が好きな方は,猫に応援することでしょう。すずめにも猫にも知り合いのいない立場では,弱い方に肩入れする方に傾くのはどうしてでしょう。判官贔屓と同じ心情と言えるかもしれません。
 こんなお話がありました。幼稚園で子どもたちが騒いでいます。先生が見に行くと,蜘蛛の巣に蝶々が絡まってもがいています。先生はすぐに蝶々を助けてやりました。そのとき,一人の男の子が「蜘蛛が可哀想」と言いました。蜘蛛にすれば折角獲物が捕まったのに,人間が余計なことをしたせいで,ひもじい状況に追い込まれてしまいます。先生はどのように対処すればよかったのでしょうか? 餌食になろうとしている弱い蝶々を助けたくなるのが普通の感情と思われますが,生きる厳しさに満ちた自然界に安易に関わることはすべきではないとも考えられます。
 弱者に肩入れする心情が本能的なものであると仮定すれば,祖先は自らを弱い存在と直感していたのではないでしょうか。その子孫に伝わる遺伝子によって,同類に対する共感が働いていることになります。襲われている弱者を見ると,我が身に照らして恐れを感じて,同情に転化していくと思われます。その同情心が,仲間を求め,社会を作るようになってきました。人は社会的動物であるという言葉につながります。強者は孤独に生きられますが,弱者は寄り添って集団の力を獲得しなければならないということです。
 都市と田園という環境を想定すると,寄り添い方は田園の方が強いようです。まばらな居住をしていると,人恋しくなります。一方,密集した居住では人が鬱陶しくなります。便利さを追い求めてきた結果としての人口の増大と都市集中という変化が,人の社会性を忌避する向きに働いているように思われます。田舎でのんびりと暮らしたいという年配者の夢がありますが,つかず離れずという間合いが快適な社会と感じているからでしょう。多少の不便さと気持ちの落ち着きとがせめぎ合うことになります。
 蜘蛛と蝶々の関係は,傍観するに止めて,自然の厳しさを実感することが教育的配慮であるという考え方もあります。猫とすずめの関係では,すずめを助ける出過ぎた行為を選ぶことにします。猫は飼われていて,すずめを捕まえる必要がないからです。すずめの命を守ってやる方がよい選択と思われます。軒先に集合して,田んぼとの間を往復しているすずめたちをぼんやりと眺める時間を楽しんでいます。

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(2010年01月17日号:No.512)