《しあわせは 邪推の渦に 堂々と》

 
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 心ない憶測話,それもあら探しのようないい加減な内容がもっともらしく交わされます。突けば溜飲が下がるのでしょうが,それで何が生まれるというのでしょう。善かれと思って真面目にやろうとしている者に向かって,言葉の刃を向けて面白がっている輩がいます。職場で見かけたというだけで,あれこれと尾ひれのついた邪推をして言いふらす者がいるというのも,世間の芥なのでしょうか。陰でごそごそ言う声にまともに付き合うつもりはなくても,そういう邪念が漂っていることに腹立たしくなります。人を信用できなくなるからです。
 自分の中にある邪心が人を見る目を曇らせていることに気がつかないで,いっぱしの大人然として,人に邪念を勝手に被せようとしているようです。それなりの責任を背負っている立場の者が,邪推を口にすることで資格を下落しています。無関係な間柄であればいいのですが,なにがしかの関わりがある人であれば,今後の関わり方を変えざるを得ません。それとなく気を許さない関係になるはずです。言ったことがねじ曲げられて受け取られる可能性があるからです。ない腹を探られるような不快感がつきまといます。
 私心なく事を進めている人に対しても,何か隠しているはずという思惑を持たないと気が済まない人もいるということです。付き合いきれませんが,付き合わなければならないとすれば,堂々と対するしかありません。どうせまともにぶつけてくる確証もなく,陰でしか言いつのれない弱みを持っているのですから,つぶしては哀れです。あだ花として咲きたいのでしょうから,放っておきましょう。
 確かに世の中はきれい事だけではありません。多少の灰色部分があります。それは世の中の潤滑剤です。それを黒色と騒ぎ立てるのは,大人げないことです。自分の得にならないから無駄だとか,間違っているとか,いかにも正論風に言いつのってみせるのは,筋違いですが,よくあることです。視野の狭さを暴露しているようで,気の毒になります。いっそのことはっきりと論破してやるべきかもしれませんが,周りの人は逆恨みを受けてもつまらないと思ったり,立ち直れなくなると可哀想と思いやって,見過ごしているはずです。
 広く浅く付き合っている人が増えてくると,真意が伝わらなく,いきおいそれぞれが勝手な憶測を抱いて人を見るようになります。親密さが薄れて疎遠な関係の人にまで関わりが広がっていくにつれて,すれ違いの割合は増していきます。心しておかなければなりません。見ず知らずの人は信用できないということに近い状況なのです。
 社会という人間集団に身を置くと,親密さと疎遠の関係があり,人間観を一辺倒で処することができなくなります。一筋縄ではいかない難しさがあります。とはいえ,人を信用する基本姿勢は崩さないようにしたいものです。信用してもらえないと嘆いても,それは相手のことであり,どうすることもできません。信用しないということを前面に出していては,生きていてつまらなくなります。結局自分を信用できなくなるからです。邪心のある人は他人も邪心を持つものと思い込むものです。その心の闇に引きずられるのはごめんです。

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(2010年02月14日号:No.516)