《しあわせは 料理の願い 味わって》

 
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 羊羹を食べながら考えました。これは何という羊羹? 普段はそんなことは考えません。どんな種類であろうと,羊羹は羊羹! それでいいのです。混ぜ物に応じて,色や味が微妙に変わりますが,食べるときはただ羊羹を食べているという感じです。細かな味に拘らずに,ざくっと食べてしまう乱暴さです。羊羹に限らず,食べ物に対して同じ接し方をしています。味がどうのこうのというご託宣を聞かされることがありますが,ほとんど聞き流しています。自分が美味しいと思えばいいと割り切っていて,美味しさの成分には関心がないからです。味に鈍感なのですが,許容範囲が広いという利点もあります。
 何かが足りないとか多すぎるとか,甘味や辛味がどうのこうのとか,焼き方が強い弱いとか,それは自分の好みが狭くて,美味しさがピンポイント状態になっているということです。美味しさは1つではないはずです。お腹が空いていれば,大抵のものは美味しいと感じます。季候や土地柄といった要因も絡んできます。その場に相応しい,食べる者の食欲に適うことぐらいのことは分かりますが,それ以上の美味しさ追求ははしたないというのが,素直な思いです。
 連れ合いが料理をしてくれますが,「これは美味しい」ということをほとんど言わないので,ときどき張り合いがないと言います。これは美味しいと言うとき,他のものは美味しくないと言っているようで,気が差します。それよりも,どれも美味しくいただいているので,言う必要がないのです。間食をせずご飯時は空腹なので,食事が美味しいのです。それなりに美味しく,拙いと思うことがないので,味音痴を自認することにしています。
 このような味音痴になったのは,料理を全くしないからでしょう。男子厨房に立たずという育ちをした後遺症です。どうすれば美味しくなるか,それを願って工夫をしようとすれば,味の違いに敏感になってくるはずです。もう少し砂糖を,塩をといった量の匙加減,熱の加え方の加減,切り方や組み合わせといったことも大切になるでしょう。食べる方にすれば,そのような工夫がそれなりになされていれば,その先の美味しい拙いは贅沢のように思われます。
 作った人に敬意を払うという気持ちは強く持っています。料理をする人は拙いものを食べさせようとは思っていないはずです。むしろ,美味しいものを食べてもらおうとしているはずです。その厚意を受け止めるようにすれば,こういう美味しさもあると受け取ることができるでしょう。あそこの店は美味しいとか拙いとかいう声を聞くことがありますが,それは単に自分の味覚との相性の問題に過ぎないとも思われます。小さい頃から,何でも美味しく食べなさいというしつけを受けたことを,思い出しています。

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(2010年02月28日号:No.518)