家庭の窓
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あるテレビ番組の中で,印象に残っている会話がありました。「家族とはどういうものでしょうか?」,「家族とは,喜びを共有するものでしょう。悲しさや苦しさは,慰めてくれる人が周りにいます。でも,喜びは周りの人も喜んでくれますが,どこかにやっかみがあります。家族は心から一緒に喜んでくれます」。原作の会話なのか,脚本での会話なのか知りませんが,うまい言い回しだなと感じました。
別の番組で,筆談ホステスとして有名な方が登場していました。筆談によって多くの人が慰められ励まされているということです。会社倒産の危機に直面している社長が励まされた言葉が紹介されていました。社長が筆談に書いた文章の中に難題という言葉があり,返事の筆談が「難題のない人生は無難な人生。難題のある人生は有り難い人生」と書かれました。また,連れあいを亡くして落ち込んでいる男性に対しては,「涙を止めればまた笑顔に戻れます。泣くのを止めれば立ち上がって前に進めます」と返事を返したということです。涙の字からさんずいを取れば戻るに,泣の字からさんずいを取れば立という字になる仕掛けです。ウィットに富んだやりとりです。
言葉による発想の転換について,思い出したことがあります。かつて,講演の中で似たような言葉の転換を使って,物事に対する意識の変化を勧める話をしたことがあります。講演後の謝辞の中で,言葉遊びという評価をいただいたのです。どのような意味なのか戸惑いましたが,ただの言葉遊びとしか伝わらなかったとしたら,話し手として残念に思ったことを覚えています。人が物事を考える道具は言葉です。言葉を手がかりに思考を組み上げますが,言葉には意味の凸凹があり,その凹凸の噛み合いによって,言葉同士が結合していきます。1つの言葉の結合手を変えてみると,その先の思考パターンが別の方向に向かうことになります。「難題があるのは有り難い」。その言葉遊びによって,行き止まりの壁に扉を見つけることができます。思考の遊びは知恵の宝庫になります。
ところで,冒頭の「家族とは?」という問を,しばらく考えたことがなかったので,テレビを見ていたとき,自分はどう答えるかと詰まってしまいました。さらに,テレビの中の答えを聞いて,妙に納得してしまい,そこで思考は止まります。そうだなと同意すれば,それは自分の考えになってしまいそうです。いろんな形で情報が迫ってきますが,それを受け入れると,あたかも自分で考えたように思われてきます。そこまでは,学びの段階です。学んだことを自分のものにするためには,自分の言葉で組み直す手続きが必要です。
家族を営んでいながら,家族という言葉を即座に表現できないのは如何なものか,そのような反省をしています。あまりに身近にあるために,改めて言葉で概念構築をする必要はないと感じているのか,あるいは短く言い切れる程簡単なものではないと思い込んでいるせいかもしれません。
家族とは,辞書には「同じ家に住む夫婦・親子・兄弟など,近い血縁の人々」とあります。この説明にあるように,普段は夫婦関係や親子関係という視点で認識しているために,家族という括りで見たり考えたりすることはほとんどありません。家族を意識するときは,他の家族と直面するときですが,そのような機会は滅多にありません。言い換えると,家族とは何かを改めて整理する必要がないということです。家族とは何か? ゆっくりと考えてみませんか?
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