《しあわせは 0から見れば すぐそばに》

 
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 藤田まこと氏の追悼ドラマの中で,「しあわせのはひふへほ」という台詞が出てきました。「(は)半分でいい,(ひ)人並みでいい,(ふ)普通でいい,(へ)平凡でいい,(ほ)程ほどでいい」ということでした。中庸の考え方です。知足(足を知る)という言葉もあります。昔話では,欲張りの老爺や老婆がひどい目に会うという展開です。分を弁えるという考え方ともつながってきます。それらの言葉が日頃の行動に組み込まれていればいいのですが,遺伝子の強欲さが溢れてしまうのも常です。
 難しいのは,半分,人並み,普通,平凡,程ほどという量的な判断です。上も下もきりがないと言われているように,真ん中を見極めるのはなかなかできないことです。人並みといっても,それは目に見える範囲でしかありません。それも,どちらかといえば上を見て,普通のレベルを高くする方に片寄りがちです。まだ普通に達していないと判断して,もっと欲しいと思うようになります。例えば,身近にいる人たちがあちらこちらに旅行した話をしているのを聞くと,旅行に行かなければ普通ではないと思っていきます。
 高齢の方は,戦後の貧しい生活を体験しています。その当時と比べたら現状はとても豊かな暮らしだと思われます。これで十分というブレーキを掛けることができます。一方で,バブル期の豊かさを普通とした経験を持つと,今の暮らしは普通以下と思うようになります。最近は中流という言葉を聞かなくなりました。中流と思い込んでいた暮らしが消えてしまったと感じているのでしょう。それぞれの人生の中で普通というものをどこに置いているか,それを自覚するには世間の暮らしの浮き沈みを経験しないといけないようですが,最初の経験が強く刷り込まれるのは致し方ありません。
 0からの出発をした方がいいようです。0から見ればいつもプラスに見えます。1から出発すると,常に1以下になり不満が出てきます。ところで,中流と感じるのはどういうことか,その区分けの方法をメモ帳から取り出しておきます。過去に不満があり将来に不安があるのが下流,過去に不満がなく将来に不安があるのが中流,過去に不満がなく将来に不安がないのが上流というのです。皆が中流と思っていた頃の言葉なので,今は少し違うと感じられるかもしれません。特に過去に不満がないという経験を持つと,1からの出発になるので,堪え性が植え付けられていないという危うさがあることになります。
 人は生まれたときには何も持っていません。親からの遺産を受け継ぐかどうかは別として,自分の手で生きていく上で必要な物を手に入れなければなりません。とりあえずはつつがなく日々生きていけるという暮らしぶりになれば,それで十分という一つの節目を設けておくことができます。それ以上は贅沢,元々何もなかったのですから,そういう思いが節度というものでしょう。あの人と同じにあれを,この人と同じにこれを,周りにいる人のすべてと同じになることが人並みとか普通とかいうことではありません。あれはないけどこれはある,その程度のことが普通です。
 しあわせのはひふへほ,その言葉を生かすことができたら,幸せになれるのでしょうが,それは普通の幸せです。豊かな暮らしをすることが幸せと思っていたら,幸せにはなれないということです。皆が幸せになることが,幸せの目的だとそろそろ気付いてもいいのではないでしょうか。程ほどであればいい,そう思うことができる幸せは手元にあるようです。

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(2010年03月21日号:No.521)