《しあわせは 不便であっても 間に合ってる》

 
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 あるテレビ番組で,「断捨離」という言葉を紹介していました。ネット検索すると,石川県にお住まいのやましたひでこという方が提唱されている言葉のようです。字面から推察すれば,モノに対する執着を断ち,不要なモノを捨て,モノから離れるということでしょうか。詳しくは,ネット検索をしてみてください。
 豊かな生活になって,家にはモノがいっぱいになっています。収納スペースが足りずに,居住空間にあふれ出ていることもあります。家の中にあるモノの全体を把握できなくなっています。片付けをする機会があるときに,こんなモノがあったと気がつく始末です。いつか使うだろうとしまい込んでも,いつかは来ずじまいです。1年間使用しなかったモノは使わないモノとして,処分してしまうという決断が大切ですが,それができないのが執着になります。
 西洋では絵や装飾において,空白を嫌い,すべて描き飾り立てるが,和風では広い空白を良しとする特徴があると聞いたことがあります。西洋の建築と日本の建築とを比べると,豪華さと簡素さという対比が思い浮かびますが,そこには素の空間があるという違いがあります。部屋の使い方も,寝室であり居間でありという多様な使い方をするために,必要なモノを出し入れするという手間を生かしています。狭いから片付ける必要があるというよりも,片付けて使うから狭くていいということかもしれません。
 食事にしても,生きていく上で必要な量を超えて,食べ込んでいます。それが豊かさと勘違いしているようです。ダイエットに励まなければならないという食生活は不健全の極みです。不要な脂肪を捨てなければなりません。物事の順序を考えれば,無理して摂取しなければ済むことです。美食という余計なことをする様式が自然から逸脱しているのです。和食が見直されているというのは,どこかで選択を誤ったということです。当たり前と思っていた暮らしぶりから,思い切って離れてみることが必要でしょう。
 必要だったモノを断ち切り,今必要なモノ以外は手を出さずに捨てて,必要になるかもしれないモノはとりあえず離しておく,そういう意識を働かせて,暮らしのあれこれを再検証することがなければ,膨張を留めることはできません。身の丈にあった生活様式を取り戻すということです。
 大事なポイントは,必要か不要かという判断の基準ですが,その前に自分は使わないが,そのモノが使えるか使えないかという選別があります。エコ運動に,リデュース,リユース,リサイクルという方策があります。ゴミを減らすリデュースはともかく,使わないとか使えなくなったモノをゴミとして捨てるのではなく,素材としての価値を残して再生するとか,新しい使い道を見つけるとか,必要とするところに移すとか,家の中から外へと視点を広げて考えることも必要です。壊れたモノは修理して使うというリペアもあります。
 特にこの頃のモノは便利になったのですが,その分複雑な機構になり,使い道が特化しているので,他の用途に転用するという自由度が狭くなっています。一方で,モノを応用して使うという工夫する発想もすっかり下火になっています。モノのない時代は,再利用や再生は身近なことであったのですが,捨てる豊かさに馴染むことで,その能力は退化してしまったようです。
 使い捨て文化という言われ方をしますが,それは決して豊かさではありません。資源の有限なことを考えれば,使い方に抑制を働かせることが必要になります。ただ単に,身の回りを片付けるということではなく,モノ資源を大事にするという発想を持ち続けることが大切となります。多少不便でも,困らなければいいという基準線が,必要か否かの判断に用いられるべきでしょう。

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(2010年04月11日号:No.524)