《しあわせは 結んだ縁に 感謝して》

 
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 あるインタビュー番組の中で,かつての宰相が「日頃大事にしている言葉は?」と尋ねられて,ポケットから手帳を取り出して見せました。そこには肉太の字で「結縁,尊縁,随縁」と書かれていました。周りの方と御縁を結び,その御縁を尊び,御縁が導くままに随うということです。出典があるのかどうか分かりませんが,一つの生き方としてメモをしています。
 自分の思い通りの生き方をすることはできません。生きるということは,人との関わりにあるからです。どのような方と知り合いになるか,それは意図してできる部分とできない部分があります。会いたいと思う人がいて実際に会いに行くことはできますが,その会いたい人の存在を知ることはほとんど偶然です。誰かの話で耳にしたということも,その誰かに会うことが偶然なことであるかもしれません。
 最も大事な連れ合いとの縁も,そうなろうという意図は当初から働いてはいません。知り合いになったのは,いろんなことの重なり合った偶然の結果です。運命の赤い糸で結ばれていたという言い方をすることがありますが,運命も御縁も,どうすることもできない不思議な力によって動かされています。さらには,自分が今ここに生きていることも,その必然的なわけなど知るよしもありません。親の縁を受け継いでいるだけのことです。
 人はいろんな縁に取り囲まれていますが,ほとんどの縁を縁だと思わずに見過ごしにしています。縁があればまた会いましょう,そんな別れ際の言葉があります。縁があるとは思わなかった方とお会いしてしまい,縁が深まることもあります。縁は異なもの味なものという言葉もあります。誠に変幻自在な縁の有り様は,生きていく上で何度も経験させられます。縁を切るか深めるか,そんな局面に立つ場合もあります。つながってくる縁を選ぶこともある程度は可能にみえます。それでも,うまくいけば縁があった,結ばれないときは縁がなかったと,やはり縁の方が主導しているようです。
 縁には良い縁もあれば悪い縁もあります。悪縁であったことが分かって縁を絶とうとすると,かなりのエネルギーを使う必要が出てきます。縁はそうなることが自然であったという流れを持っているので,逆らうことになるからです。縁の流れを断ち切って,別の縁に乗り換えるためには,別の縁につながるような自分に変えることもしなければなりません。生き方を変えるということです。縁を待つのではなく,迎えに行くという覚悟を発揮するときもあるようです。
 良い縁を結ぶためには,縁はお互い様ですから,良い縁をつなぐことのできる品格を自らの中に保つように努めたいものです。あの方と知り合って良かった,そういう人に出会うためには,そう思っていただける自分になるしかないからです。自分だったら,今の自分と縁を結びたいと思うか,そう自らに問いかけています。

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(2010年04月25日号:No.526)