家庭の窓
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非常勤講師として,ある専門学校で週に2日,電気の基礎科目を教えています。学力は教えられるものではなく,自ら学ぶものです。学生が知らない内容を話して聞かせることまでが教えることであり,聞いたことを自分の記憶の倉庫に収納し,使ってみることが学ぶことになります。テーブルの上に知識の皿を並べてやりますが,それをどの順番でどれほどかみ砕いて飲み込んでいくかは,学ぶ側の知識に対する食欲によります。好き嫌いをしている学生に,頭によいからと言って聞かせても,知識の皿に鉛筆というお箸を伸ばさなかったら,知識料理は廃棄されるだけです。
教科書の区切りごとに演習問題をレポートさせることで,問題を解くために必要な知識を食べざるを得ない機会をつくります。小テストも課します。テストという強制的な状況を利用して,知識を使わせることで,食べず嫌いの壁を通り抜けさせようという魂胆です。こんな味がするんだ,こんな役に立つんだ,という食感を経験させることで,意図的に学ばせています。ところが,それでも,食いついてこない学生がいます。答案用紙が真っ白です。採点が楽なので助かるのですが,自己責任で落ちこぼれていく学ばない姿を見るのは,悲しくなります。もちろん,1回の機会で終わるのではなく,繰り返しチャンスは与えるようにしています。
今の自分は何をすればいいのか,何をするために今ここにいるのか,そういった基本的な覚悟を持っていないと,時間を無為に消費していきます。万人に公平に与えられている時間という財産は,その運用の仕方を個人の責任で決めなければなりません。若者はどのように決めてよいのか経験不足なので,経験者が学校という形で人生の時間の一部を有効利用できるように支援しています。確かに自分で決めた時間の使い道ではないかもしれませんが,そこに飛び込んだ,飛び込んでしまったからには,時間を無駄にしないようにしてほしいと願っています。
食事をしないと生きていけないように,知識という食も摂取しなければ,社会で生きていくことはできません。食事については,お腹が空くので食べたいという欲求によって進みます。ところが,教育によって差し出される知識は,食べる側にそれを知りたいという欲求がほとんどありません。教えられている知識が何の役に立つのか,経験がないために想定外なのです。多くの場合,後になって,学生の時にもっと学んでおけばよかったという反省をすることになります。教える側の人は,その反省があるから教える意欲を保ち続けています。
物事を理解する,分かるという喜びを感じる機能が育っていれば,学びたいという意欲を持つことができます。この要件はかなりハイレベルなものであり,それなりの環境が必要になります。一方で,ハングリー精神が学習意欲を産み出すということもあります。かつて,貧しい家庭の中で育っている子どもは,学校に行くことが豊かさにつながる道であると信じていました。学びは解決したい課題を持っているときになされるものです。どうにかしたいという問題があるから,学ばざるを得ないという切羽詰まった状況です。
そのような課題のないままで学ぶというのは,かなりの努力がいるのかもしれません。しかし,素直に教わることを受け入れ,それなりに学んでいる人もあるでしょう。そういう人は,やがて課題に出会ったとしても,学びの経験を活かして,苦もなくクリアしていき,課題と感じることもないでしょう。学びをしていなかった人は,課題に直面して,後悔することになります。そこから学びが始まればいいのですが・・・。
いつ学べばいいのか,それは学ぶ人が決めることです。学びのチャンスを与え続けながら,同調できる若者を求め続けていくしかありません。教えることの結果は,ずっと先になって現れるものですが,それがどの内容であるかは分かりません。教えたことの一部がいずれ役に立ってくれる,その期待が楽しみです。
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