《しあわせは あれやこれやを 考える》

 
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 理系と文系,文化系と体育会系,硬派と軟派,右派と左派,甘党と辛党,上戸と下戸など,いろいろな分け方があります。エイヤッと大別していることですので,大凡の見当です。どちらかといえば,という程度のことです。どちらかに分けることで,特徴をつかもうとする思考の一方法です。また,総論賛成各論反対という矛盾が起こるのは,大づかみな判断の中には,個別の判断で逆になるものが少なからず含まれるということです。虹の色を7色とするのも,中間色を見ない振りをしているので,便宜的なものです。
 自分に関わりのあることは細部にこだわり,関わりがないものには大まかな認識で済ませています。人の認識容量に限りがあるからです。鳥の目から虫の目まで目の感度を変えて,人はごく自然に物事を観察しています。状況の判断に際して,どのレベルで見極めるかということを意識するようにしないと,惑いという小路に紛れ込みます。人間万事塞翁が馬という言葉は,不遇な事件に直面しても,状況の流れを一段高見をすれば好転することになるという,判断レベルの選択の効用を教えています。
 大事の前の小事。小事は問答無用と切り捨てられます。庶民の暮らしぶりという小事は,一大事の前には押し流されます。総論としては受け入れなければならないのですが,自らの各論としては受け入れがたくなります。その矛盾を解く道は,フォローという後始末のきめ細やかさです。人事を行う際には,損して得取るという原則を確実に実現することが必要になります。
 楽天的と悲観的,信頼的と懐疑的,性善説と性悪説など,いずれを選び加担するかは自由ですが,見えてくる世間は反対になります。もちろん加担の度合いが100%でなければ,世間の色合いも濃淡が現れてきます。歩んできた道がどのような色合いであったかに応じて,世間を見る目は人によって違ってきます。今まではという経験が,これからもということにはならないかもしれません。世間のあれこれが理解できないという感じになったとき,世間を見る目を補正する時期になったということでしょう。
 いろいろな類別がある中で,自分はどの位置に立っているのか,じっくりと考えてみることもあっていいのではと思います。そんなことをして何の役に立つ? 功利的な視点からは問いただされますが,その問いかけが的外れになる事柄があってもいいはずです。物事を見て考える物差しはたくさんありますが,一つの物差しですべての物事を見ることは適切ではありません。例えば,体重計で身長を測ることは適切ではないようなものです。
 柔軟なものの見方は,多様な物差しを持ち合わせることで可能になります。幸せとはどのようなものか? それは一つの物差しで測ることはできません。あれやこれやを測った上で,総合的に導き出されるものとなるはずです。人によって幸せのイメージが異なりますし,個別の事象ごとに幸せの度合いも様々でしょう。だからこそ,幸せを探す楽しみはつきることがなく続きます。

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(2010年06月27日号:No.535)