《しあわせは 生かし生かされ お互いに》

 
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 先月の最終土曜日の夜,地域の公民館(集会所)でボランティアの軽食とビール・酒による例会がありました。強くはありませんでしたが,雨風のある日でした。アルコールに弱い身ですので,外の風に当たりに外に出たとき,辺り一面に色とりどりの紙くずが散乱している地面が玄関の明かりに照らし出されていました。見ると,玄関脇に10メートルほどの竹が2本立てられており,枝のあちこちにまばらに色紙が巻き付いています。七夕飾りでした。雨と風で大部分の飾りが落ちてしまっています。子どもたちの願いが洗い流されてしまったような感じを受けて,寂しい光景でした。
 気になったのは,7月7日の七夕から,10日も早いということです。10日くらい早めの七夕でもいいではないのという声もありそうですが,せめて7月に入ってからの方が,気持ちは入りやすいのではと思ってしまいます。節目の行事は早め早めに煽られるのが常とはいえ,できるだけ日月は守りたいものです。子ども会育成会の年間行事であり,人の都合で動かされてしまう事情も分からないではありませんが,都合を付けることも大事であろうと思います。
 一事が万事ということではありませんが,現代人は自分の都合を優先する傾向が強くなっています。社会のあれこれが自分の都合に合わないとお気に召さない,都合に引き寄せてしまおうとする,無理なら止めたと逃げ出していきます。自分に合わない世間は認めません。よく耳にしますが,就職した若者が,この仕事は自分に合わないと辞めていきます。自分を合わせていくという気がないようです。例えれば,自分を中心に世間は動いている,動いているはずだと思っているようです。天動説です。
 以前,ある作詞家が言っていたことを思い出します。「昔の歌は皆の歌であったが,今の歌は私一人の歌である。また,今の歌はクローズアップになっている」ということです。曲を提供する人は,曲を求めている人の気持ちを感じ取っています。一般の人たちの関心の広がりが,ごく身近な範囲に限定されているということです。これでは少し離れたところにある世間は全くの無関係な世界になり,自分を関わらせるという発想は出てきようがありません。広い世間の中の自分という,地動説は想定外でしょう。
 国際化とは広い世間とのつながりですが,リビングで情報機器を使って目の前に見えているものが世間と勘違いしているのではないかと思ってしまいます。それはリモコンで自分の思い通りに簡単に扱えます。自分の思い通りにならない世界との関わりを失うのは,視野狭窄です。井の中の蛙大海を知らずです。情報化は世界の距離感を縮めますが,それがバーチャルであるという事実を弁えることが大事になります。現実世界が抱える奥行きという座標を忘れないようにしたいものです。
 もちろん,個人の尊厳をないがしろにするということではありません。自分か世間かという2項対立を前提とするような幼稚な話ではありませんし,味方でなければ敵であるといった単純な関係観は意味がありません。分を弁えるという言葉がありましたが,五分五分という辺りを一つの拠り所と考えておけばいいのではないでしょうか。共に生きているという実感を持つということです。その上に構築された世界観がなければ,しあわせは見つからないでしょう。自分を変えることによってしか世界を変えていくことはできないという知恵の伝統をきちんと受け継いでいきたいものです。

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(2010年07月11日号:No.537)