《しあわせは つかむ気持ちが あればこそ》

 
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 夏休みに入って,小学生の朝のラジオ体操が始まりました。神社の境内にあるゲートボール場に集まり,6時30分の放送に合わせて,見守る大人も一緒に体操をします。参加しなければならないというわけではありませんが,初日にカードをもらって,毎朝6年生から出席のハンコをもらっています。土日の休みのほか,お盆の1週間,8月の下旬はお休みです。短い体操ですが,全身を動かすのでうっすらと心地よい汗をかきます。
 毎年のことですが,子どもたちの体操の姿には,迫力がありません。身体の隅々にまで力が入っていないのです。手を伸ばすときも,指先までぴしっと決まっていません。肘から先が眠っています。身体を曲げるときも思い切り曲げるという気持ちが見えてきません。いかにもさせられているという態です。自分の身体を自分がコントロールせずに,言われるから従っているといった風に見えます。
 子どもたちを取り囲んでいる親も大して変わりません。体操はキビキビとするものと思っているのですが,大勢はそうではないようです。どうせするなら,きちんとするのが当たり前,いい加減な気持ちの入れ込みなら,しない方がましです。たかが体操ですが,されど体操です。一事が万事ということで,他のことも推して知るべしと思ってしまいます。
 自分の身体の末端まで気を入れる癖をつけておかないと,することがいい加減になります。手足を思い通りに動かすことによって,器用さが獲得できます。神経ネットワークの完成度と関係していることを教えなければならないようです。手抜きをすることで,子どもたちの脳の構築が手抜きされます。ちゃんとしなければいけないときはちゃんとする,そういう言い訳をすること自体が手抜きになります。いつもきちんとするという覚悟がなければ,生き方が締まりのないものになります。
 専門学校の学生たちにも,同じような手抜きが見られます。日々の講義をきちんと聴き取るという真剣さがありません。今自分は何をしなければならないかを自らに問いかける覚悟がありません。言われるから,なんとなく聞いているようですが,上の空です。小テストをすれば一目瞭然です。聞く気がなければ,聞いたことは頭に残りません。講義の意味を自分で考える処理をしなければ,雑音と同じなのです。近頃,子どもたちの学力の低下が言われていますが,今していることに気持ちを込めることができない結果です。
 主体的に取り組むことができると,無駄な時間が無くなります。いざというときだけ力を集中しようとすれば,いざというとき以外は無為に過ごすことになります。大人の場合にも,例えば,会議などで協議に参画しようという気構えが無くて,ただ出席しているという方がいます。さらに,何を協議しているかに集中できず,見当外れなことを発言される方もいます。今という時間を充実させなくては,貴重な時間がもったいないのです。
 そんなに張り詰めてどこへ行く? そんな声が聞こえてきそうですが,張り詰めると言うほどのものではありません。自分の力を使おうとするだけでいいのです。エンジン全開で走ることは無理をすることになります。エコ走行の勧めです。走らされるのではなく,走ろうという気持ちを大事にしたいと思っています。その姿勢が日々のしあわせを招き寄せるはずです。

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(2010年07月25日号:No.539)