《しあわせは 些細な思い 捨てきれず》

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 暮れに買ってお正月にお供えした小さい鏡餅には,小虎の人形が乗っていました。片付ける際に,小虎は処分できずに,あちこちのものの上を漂っています。姿があるものは廃棄するのがなんとなく憚られます。人形などは供養することもあるようですが,おまけみたいな付属物では、そこまですることもないのでしょう。子どもの遊びに使われるぬいぐるみなども,捨てられないで貯まっていきます。
 役割の上で写真を撮ることがあります。連れ合いの役目の上での写真を撮影することもあります。いわば行事ごとの写真ですが,参加者をまんべんなく納めることになります。その結果として,よその方の写真が貯まることになります。必要な方には焼き増しをしてお渡しをするのですが,いくつかは残ってしまいます。だからといって,処分をすることは気が咎めて憚られます。
 人形は人の身代わりという意味合いがあり,写真には人の魂が吸い取られるといった昔の人の思いなどを,普通には古い感覚と無視する理性が働きます。しかし,いざ自分の手で無神経に扱うことになるといささかのためらいがあるのはどうしたことでしょう。
 ドラマなどで,恨みのある人の写真に釘のような尖ったものを刺すシーンがあります。写真を身代わりにするという共通の感覚があるようです。その延長上になるのか,マンガの世界の人物に恋心を抱く若者もいるそうです。そこまでは理解の外です。
 家族の写真を持ち歩くという習慣のある方もいるでしょう。人に対する思いを向ける具体的な対象があれば,思いが集中できて,落ち着くことができます。恋人や愛する人の写真を身代わりと見なすのは,若い頃の特権です。年齢を重ねると薄れていきますが,そうでもない方もいるでしょう。
 お仏壇のある部屋に亡くなった父母の写真が掲げられています。父母への思いの依り代です。そこに父母がいるような気持ちになり、語りかけることがあります。それに向かって語るしかないからです。お盆に立ち帰ってくれたとしても,姿は見ることはできません。その辺にいるだろうというのでは,気持ちの納まりがつきません。皆さんはどう考えているのでしょう。なんとなくお仏壇の中におられるということでしょうか。それはそれでいいのでしょうが,・・・。
 写真や人形といった姿のあるもの以外で,身近な人や自分自身を思い入れするモノがあります。思い出を引き出すモノです。普段は目にしない場所に放り込んでいるので,用をなすことはありません。不要なモノを片付けようとして再会すると,一気に思い出回路がつながります。不要なモノと判定できなくなります。そのまま処分できずに,またしばらく眠らせることになります。思い出という過去を引きずる積もりはありませんが,捨て去ると今の自分の後ろ姿が消えてしまうような感覚に襲われます。
 人が持っている触れ合いやつながりに対する深い思い入れの感情は,本能的であるのかもしれません。形あるモノを無にすることへの恐れということもできます。無常という境地には至らない凡夫であることを白状してしまいました。

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(2010年08月15日号:No.542)