《しあわせは 我ここにあり 堂々と》

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 最近,引き出物やお返しの品を差し上げる方法として,カタログを届けて、自由に選んでもらうというやり方が増えてきたのでしょうか。そういう機会に出会うようになってきました。立派なカタログを眺めていると,カタログ製作の費用も安くはないだろうにと余計なことを考えてしまいます。いろんなジャンルの品物が取りそろえてあり,選ぶのに苦労をします。頂くモノですので何でもいいようなものですが,これが欲しかったというモノは見当たらず,食品のような後に残らないモノを選ぶ場合もあります。
 インターネットでも申込ができるように,ID番号などが通知されてきます。住所氏名などの個人情報が登録されているようで,番号で用が足りていくのは便利ですが,知らないところに自分の情報が納められていると思うと,ある種不気味な感じもします。ただ,住所氏名程度の個人情報は,この国に生きていく上では公表しておくべき情報であるとも考えているので,大きな心配はしていません。
 個人情報保護法が制定されて以来,その趣旨が勝手に一人歩きして,住所氏名が秘密扱いになりました。表札を掛けなかったり,電話帳に掲載しなかったり,児童の名札が携帯されなかったり,自転車に記名がなかったり,世の中が匿名化されて,とても不気味です。どこの誰それ,それは社会的な存在基盤を現します。住所氏名不詳,それは社会との接点を喪失した状況です。
 生活空間が歩いて行けるご近所から車で行き来できる範囲にまで広がって,どこの誰それが必要でなくなりました。昔は,ご近所のお店から配達してもらうといったことでお互いに顔見知りの関係がありました。現在は,スーパーなどでの買い物はお互いに見ず知らずの間柄です。大規模小売店というのは不特定多数との取引をするお店を意味します。旅の恥は掻き捨てと言われてきたように,匿名化した人々は,普通の規範意識が薄れてしまいます。人との関係で相手を人と思わなくなります。万引きをしたら,お店の人が困るだろうという想像力が消えてしまいます。匿名化することで,社会との関係を遮断することから,自らの人間性を喪失することになります。
 折しも,長寿者の存在確認が曖昧になっていたという問題が持ち上がりました。社会組織が大きくなると,人と人との直接関係が不可能になり,書類上の文字によるつながりに簡略化されます。書類が不渡り手形化しているようなものです。金との交換が保障された兌換紙幣が,交換を拒否された不換紙幣に代わったようなものです。現在社会は信頼を基盤にして成立しています。その信頼は匿名化とは相容れません。信頼はお互いを尊重する関係ですが,匿名化はお互いを無縁化し,さらには無責任というおまけもついてきます。
 どこの誰それであるという公表によって,人は信頼と責任を引き受ける覚悟が現れます。隠れ住むということになる匿名化は,避けたいものです。

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(2010年08月22日号:No.543)