《しあわせは 発言控え 行動し》

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 情報社会と掛けて,うどん屋の釜と解く。その心は,言う(湯)ばっかり。どういうわけか,近頃謎かけが流行っているようです。テレビ番組もあります。子どもの頃,事典で謎かけを探して楽しんでいたことを懐かしく思い出します。川柳など,古来からの言葉遊び?に,子どもらしくないですけど,はまっていたのです。
 島津日新公のいろは歌というのがあります。「い」の項は,「いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし」です。不言実行という四字熟語もあります。言うこととすることが違うというのは,人の常なのでしょう。だから,このような言葉が語り継がれています。現在も,この状況は変わっていません。より進行しているのではないかとさえ,思います。
 情報社会は,簡単に言えば,あれこれ言う社会です。言うだけの世界が隅々まで蔓延ってしまい,物事が動かなくなってきました。○○したい,○○であるべきであるといった言質が,マニフェストとかアジェンダとかカタカナ語の看板を付けて言うばっかりの情報と化して勝手に歩いて行くだけです。情報のバブル現象で,情報の価値,つまり実績とのリンクが希薄になっています。不換紙幣と同じで,信用に支えられているので,実績が伴わないとなれば一気に信用不安になり,破綻するはずです。
 死亡届けが出るはずという信用に支えられていた行政活動は,未届けの状況を把握できずに,姿無き長寿者を産み出していました。現実を確認していない住民情報の危うさを想定外のこととしてきた迂闊さは,世の中が情報だけで動いているという錯覚のせいです。
 言うだけの人はいっぱいいます。社会に限らず身近な世事について,あれこれの課題を言い募るのは簡単です。簡単ですから,少し情報を集めれば,いっぱしのことを言うことはできます。しなければならないことは,解決することです。したいことが情報として明らかになっても,その具体化をする行動が続かなければ,無意味です。私は言う人,するのは誰かがすべきであると,他人に投げます。実現に向けた行動を可能にするのは,並外れた知恵が必要ですが,今求められるのは,行動を引き受ける覚悟を持った人です。
 ○○をしようということになって皆が賛成します。でも,そこで終わります。汗をかいて実行する人がいないからです。あれこれ注文を付ける人はたくさんいます。その注文を引き受けて実行する,あるいは人に注文する前に自分で何とかしようと動く人がほとんどいません。それでは困るというので,当番制や役職を付与する手立てを駆使して,誰かに押しつけていきます。押しつけるという穏当でない言い方をしますが,その背景があります。する人に対して協力をする人がいないということ,役を終わるところっとしない人に戻ってしまうということです。引き受ける苦労が分かれば,協力する人に変わろうという気持ちが現れるのではという期待は外れ続きです。
 事態はさらに悪い場合もあります。○○をしようという前向きな話に,あれこれ難癖を付けるということがあります。メリットとデメリットは?という質問は,デメリットを際立たせようという下心が見え透いています。不都合な点があれば,そこをどうクリアしていくかという方向に知恵を集めるべきです。現実には,不都合があるから止めるという向きに結論づけようという逃げがあります。余計なことに関わりたくないという浅はかな防御姿勢が顕著です。そのような趨勢が至るところで見られると,情けなくなります。
 火中の栗を拾う,そういう剛胆な人がいなくなったのは,大人が小粒になったということでしょうか? よそ者,馬鹿者,のぼせ者という人がいなければ,ことは進まないと言われています。黙って引き受けて知らない振りができる,そういう人になりたいものです。そうではないから,なりたいのです。思うだけでは,いけないのですが・・・。

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(2010年08月29日号:No.544)