《しあわせは 言葉つないで 分かり合い》

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 共同するのが社会生活の基本のパターンです。そのためには,共通認識が必要です。十人十色,百人百様と言われているように,人は違いますが,ものの見方や捉え方,考え方,理解の度合いも違っています。例えば,7という共通理解を期するとき,1の人には6の説明を,2の人には5の説明,3の人には4の,4の人には3の,5の人には2の,6の人には1の説明をすることになります。この数字は必ずしも優劣を意味するのではありません。素人と玄人といったそれぞれの分野の経験の違いです。未経験の人には懇切丁寧な説明を,経験者には簡単な説明で済むといったことです。経験の差がある子どもと大人への説明が違うというのと同じです。
 この程度のことは既に知っているだろうという見込みで説明していると,失敗します。4の人として3の説明で済ませていると,2や3の人には理解が中途半端になります。人はそれぞれ専門領域の中で働いています。専門の中での常識は,一般常識とは違うのですが,あまりに慣れているので,つい誰でも分かっていると思い込んでしまいます。いわゆる業界用語は,業界での素養がなければ,部外者には意味不明なのです。分かりにくいものとしてよく話題になるカタカナ言葉や略号なども,関心分野が異なると,意味不明になります。
 コミュニケーションは,言葉そのものの伝達だけではなく,言葉が引き出す素養によって,理解が進みます。例えば,長寿の祝いである「古稀」は,唐の詩人であった杜甫の曲江詩,「酒債は尋常行く処に有り 人生七十古来稀なり」(酒代のつけは私が普通行く所には、どこにでもある。(しかし)人生七十年生きる人は古くから稀である)に由来することを知らなければ意味不明です。西洋であれば,聖書やシェークスピアの作品が素養となって,共通の理解が進んでいくようです。四書五経といった書物が普通の素養となっていた時代もありましたが,現在の共通の素養は何でしょう?
 子どもがテレビを見る理由,ゲームをする理由は,友達と話が合わなくなるから,というものです。同じ経験をしていないと,コミュニケーションができないのです。しかし,同じ経験をしていくことは不可能です。次第に経験の蓄積がずれていきます。やがて,人とコミュニケーションするのが苦手となります。コミュニケーション技術が未熟であると言われます。
 同じ経験や共通の素養がコミュニケーションの条件ですが,経験や素養は当事者の間で異なるのが普通です。そのギャップを埋め合わせていくのもコミュニケーションによるものです。言葉を交わすことで違いを察して,丁寧な説明を加えていけば,共通の理解に至ることができます。それこそが対話の醍醐味でもあります。
 コミュニケーションは,自分のペースで進めるとうまくいきません。お互いの理解の程度を確かめ合いながら,言葉を端折らないことです。その気配りができないと,分かり合えないことになります。話す方は,「ご承知のように」という言葉を明示的に使ったり,暗に想定することは,要注意です。一方で,「こんなことを聞くのは恥になるのでは」というのも,無用なことです。知らないことは尋ねる,それがコミュニケーションです。コミュニケーションの目的は,共通理解に至ることだからです。
 子どもと大人,若者と老人,男と女,独身者と妻帯者,上司と部下,先生と生徒,業者と顧客,いろんな立場の間のコミュニケーションが円滑に進めば,もう少しは安穏な世間になるのではと感じています。闇雲に人に突っかかってしまうとか,問答無用の諍いとか,引きこもりとか,人と人が理解し合えないことの帰結のようです。分かり合うためのコミュニケーションを忘れてしまったのは,情報社会の皮肉でしょうか?

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(2010年09月05日号:No.545)