《しあわせは 隠れるよりも 堂々と》

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 きおんのきゅうげきなていかにとまどっています。気温の急激な低下に戸惑っています。表音文字であるひらがなのつながりを,漢字によって単語のまとまりにすると,伝える力が強化され,読み手にとって分かりやすくなります。
 社会は人のつながりです。いつどこで誰がという表現のまとまりがあって,人のつながりが明らかに定義されます。誰かさんと誰かさんといった匿名のつながりでは,別次元の社会になります。例えば,スーパーで買い物をするとき,店の人は名札を下げて従業員であるという点で匿名ではありませんが,買い物客同士は匿名です。隣り合っている方がどこの誰か分からないというのは,考えようによってはお互いに不気味です。
 何の関わりもないときには匿名でもいいのですが,何らかの関わりを持つときには,名乗り合うのが儀礼です。初対面の名刺交換のような匿名脱却が必須です。ところで,関わりというのは双方の合意が前提です。求める人と求められる人といった相思相愛の条件が整って成立します。セールスによる押しかけてくる誘いに対しては諾否を迫られるので,それが面倒で匿名という引きこもりをします。その守備姿勢が一方で,必要な関わりを遠ざけていくことになります。
 周りに人はたくさんいても関わりのある人がいない,そこは社会ではありません。安心よりも警戒・排除の領域になり,人間社会の基盤である許容と遠慮という互恵関係は存在しません。匿名化で透明になることによって,お互いが警戒すべき存在になっていくことになります。安心とは,どこの誰という特名(匿名に対比する造語です)であることが前提になります。自らの存在を明らかにすることによって,相互の安心が生まれることを想起する力が求められています。
 ある調査会社の方の話ですが,電話によるアンケート調査をしようとして電話帳を集めると,最近は以前と比べて目立って電話帳が薄くなっているそうです。電話帳に番号を掲載しない人が増えているということ,若い人は携帯電話しか持たないといった事情によるものと推察されます。情報社会といいながら,個人の存在を示す程度の情報さえも消えていくという,想定される期待に逆行するような奇妙な展開になっています。情報社会が目指すものは匿名社会というものなのでしょうか。
 社会には表と裏があるということは常識です。邪な意図に巻き込まれないように防衛することは必要です。その用心は大切ですが,やり過ぎると拙いことになります。何よりも,安心できる社会が失われていきます。守るために逃げてばかりではなく,守るために出ることも不可欠です。その動きが生まれることで,かつての常識であった匿名は卑怯であるという共通理解が蘇ることを期待しています。

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(2010年10月31日号:No.553)