《来る明日を 迎えに出れば 甲斐がある》

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 夕方の空をコウモリが飛び交う季節になりました。田圃に水が張られています。今までどこにいたのか分からないカエルが合唱しています。毎年の風情が繰り返します。明日も同じ一日,来週も同じ一週間,来月も格別のことはない一ヶ月,そして気がつけばまた同じ一年が巡ってきます。
 いつまでも同じ日々を過ごしていけるような思いを持っていても,あるときから昨日と違う一日,去年と違う一年を迎えるときが来るものです。子どもの頃の感覚的な一年が短いのは,入学と卒業という節目を小刻みに通過するからです。大人になれば予定された節目は間遠くなり,その代わりに冠婚葬祭という不定期な節目が訪れてきます。その予定のない暮らしが,一年を長く感じさせるようです。
 人は皆同じ時間を手にしています。その中で忙しく働き金を貯める人,忙しく学び知恵を貯める人,忙しく遊び趣味を作る人,忙しく飲み友を作る人がいて,あっという間の人生を走り抜けていきます。一方で,そこそこに働き,学び,遊び,飲む人もいて,そこそこの人生を歩みます。どちらがよいかという判定は,人それぞれでしょう。
 若い人の中には「人は何のために生きるのか?」という疑問を持つ者がいます。多くの若者はそんな問が存在することなど思いもよらないでしょうし,たとえ問われても何の関心も抱かないことでしょう。悩める若者は孤立無援の砂漠に立たされるような虚無に囚われ,呆然とし,その不安感を反社会的行動という問題提起の形で大人に向けてきます。その若者に正面切って向かい合うことのできる大人は希有なことでしょう。みんな探している最中です。
 何のために生きるかを考えるのは,明日の自分を考えることにほかなりません。ですから,同じ日々を送り続けていると明日への熱い思いに不感症になっていき,生きるということを感じなくなります。言い換えれば,生きているという感覚を忘却して漫然と日々を過ごしていることになります。
 生きがいを求めたくなることがあるかもしれません。生きがいとは生きててよかったと思うことでしょう。ゆったりと風呂に浸かっていると,生きている実感を満喫できるかもしれません。仕事の後の一杯が何よりの生きがいと感じるかもしれません。そういう形で生きがいを確かめられるなら,話は簡単です。
 実際には,風呂から上がるとき「すっきりして,生き返った!」と感じるはずです。生きるスタートに戻ったのですから,風呂から上がって何をしようとするかが問題なのです。寝るだけですか?

(2001年04月29日号:No.56)