《しあわせは 知恵の限界 弁えて》

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 事業仕分けの波があらゆる施策に及んでいるようです。当事者ではないので"あらゆる施策"という確証はありませんが,関わっている些細な事業も対象になろうとしているという声を聞くと,こんなところまでという思いから,あらゆる施策という推察をしてしまいます。
 ところで,その仕分けられることへの対応が迫られているという状況で,事業の存続を担保するアリバイ,存在証明が必要になります。事業価値証明です。そこで語られたことは,数値実績が設置されないような事業は,評価ができないので,意味がないということでした。誰がどの程度の重みで語ったかはともかくとして,事業価値を数値で表すべきという単純さは如何なものでしょう。数値というものの特性を弁えていないようです。数値は物差しがあって現れてくるものです。物差しは一つの指標です。
 社会的活動を対象とすれば,最も簡単な指標は,参加人数です。活動は目的があってなされます。その目的の達成度が最も重要なものですが,達成度を測る物差しは,必ずしも参加人数ではありません。参加した人がどれほど満足したか,向上したか,感動したか,習得したかといった達成度は,数値化できるような指標の設定が困難です。モノ作りであれば,その個数という指標は目的と合致するので,数値による価値評価が可能です。しかし,人に関わる事業では数値化は簡単ではありません。
 数値化にこだわる理由は,客観的な判断を下しやすいということです。数字は嘘をつかないという信頼です。個人的な揺らぎを封じ込めることもできます。誰が見ても明らかな数値の説得力に頼ろうとするからです。気をつけなければならないことは,数字の氏素性が問われないままに数字が一人歩きすることです。例えば,肥満度という数値と健康との間に,どの程度の相関があるのでしょう。統計的な意味があるとしても,その数値で健康という価値に線引きをすることは無理でしょう。
 仕分け対策に,とってつけたような指標を設けて,無理矢理数値を持ち込んでも,仕分けする方は別の指標をあてがおうとするでしょう。数値と数値のせめぎ合いが生まれます。数値を判断の材料にすることは勧められるとしても,数値しか認めないという無謀な愚行は願い下げにしたいものです。数値に頼るあまり,見当外れな仕分けに成り下がらないように願い上げたいものです。
 測りようのないもの,箸にも棒にもかからない無駄なことがあるから,世の中のことは案外とうまくいっているところがあります。無駄を省いてきれいさっぱりして,かえってぎごちなくなることがあります。無駄の効用ということがあるのは,人智では測り得ない価値があるということです。価値とは総合的な存在であり,決して一つや二つの指標だけで表されるものではありません。
 人には見えない指標があるという懐の深さがなければ,世事の判断を誤ります。数値証明に限界があるように,人智判断にも限界があるという謙虚さが賢さの発揮になります。

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(2011年01月23日号:No.565)