《しあわせは 人の話に 沿ってみる》

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 福祉関係の場で,策定のお手伝いをしている事業計画に関して,お話をする機会がありました。関係する方々への計画説明会のようなものです。調査アンケートの結果を提示しながら,そこから導き出される計画の目標や課題をお伝えすることが目的ですので,至って真面目な話であり,楽しいものではありません。予定の時間に話し終えて,帰路の車中で,連れ合いが話しかけてきました。連れ合いも役職つながりで出席していました。
 この会合に出席していたある女性議員さんが,同席していた人に,「あなたは熱心に聞いていたわね。私は寝ていた」と話していたというのです。たまたまそばにいた連れ合いに気付かなかったようですが,気がつくとばつの悪そうな様子だったというのです。寝ていたということは,話がつまらなかったと言いたいのでしょうか? 講師の連れ合いに聞かれたことが拙いと思ったのでしょうか? そんなつもりであったのかどうか,どうでもいいことですが,言葉には気をつけないと,妙に誤解されることになります。
 講演にしろ講義にしろ,一方通行である話は,話者は話すだけ,聴者は聞くだけです。対話にならないので,長時間では飽きてくるものです。内容によらず,聞く態勢が固定されていることに飽きてきます。話の内容が聞き手の疑問や聞きたいことに答えるものであれば,対話が成り立つので,飽きることにはなりません。つまり,聞き手が問題意識を持っていると,講演は対話になり得るということです。ただ漫然と受け取るだけでは,絡み合いがないので,飽きてくるのを待つことになります。
 関心のある話なら,見方や考え方のすれ違いを楽しむことができます。同じ事実であっても,見方や評価尺度を変えると,反対とまでは行かなくても,違った結論になることがあります。その違いはどうすれば埋めることができるか,評価の修正や,新しい事実で補強するなど,展開する楽しみが生まれます。自分の考えと違うから反対であり,無視するという思考停止をすることも可能ですが,それではつまらないでしょう。
 関係者の会合とはいえ,当事者や協力者,支援者といった立場の違いがあり,当然に関心が直接的か間接的かという違いがあります。自分向けではないと思ってしまえば,馬耳東風の話になり,退屈して眠くなるのが当たり前です。ただ,始めから終わりまですべて,話が耳に入らないということはないでしょう。自分にはそれほど関心のない内容であると判断するまでのところは聞いているはずです。それでも,なにがしかの内容は伝えることができたことになります。
 話者は材料を提供しているのであり,それを受け取って使ってもらうか,捨ててもらうか,それは聞き手に任されます。捨てられたからといって,それは材料が悪かったということにはなりません。聞き手にとって適合しなかったというだけのことで,聞き手の方の事情によります。「私は寝ていた」と他者に伝える意味が不明です。それを聞かされた人は,あなたが寝ていようがいまいが私にはどうでもいいこと,と思うはずです。退屈な話だったという感想を聞いて欲しいということでしょうが,ピントが外れています。

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(2011年02月06日号:No.567)