《しあわせは 教わるときの 驚きが》

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 NHKラジオの朝の番組に,列島を北から南に天気と話題でつなぐコーナーがあります。お天気担当の方もいて,天候に対するコメントを挟んでいます。今朝はもやが出ていますという報告がありましたが,後で「もやが出ているのは、風がないからでしょうね」とつぶやくように話が継がれました。ごく自然の流れですが,それを聞いて,頭にピクッとしたものが生じました。もやが出ているという事実に対して,温度や湿度といった直接的な推論ではなく,一見何の関係もない風に結びつけられたことが、意外だったのです。
 NHKテレビで美の壺という番組があります。たまたま目にしたとき,仏像の美について語られていました。すらりとした体型に薄い衣をまとっているようなお姿です。衣のひだである衣文の模様によって,仏のエネルギーが表現されているというのです。筋肉隆々とした身体という活力の表現ができないために,制作者は衣文に工夫をこらすしかなかったのです。仏の薄衣にエネルギーが結びつけられているとは,思いもしませんでした。仏にエネルギーという概念を結びつけるのはどことなく違和感がありますが,仏の活力は動きをもたらし薄衣に波紋を描かせるという因果関係を辿ることができます。仏の衣はなぜひだがあるのかという疑問を持てば,仏の元気が見えるということです。
 知らないことが山ほどあります。ありますという確信はなく、あるはずですと言わなければなりません。知らない間は知らないということが分かりません。言われてはじめて,自分が知らなかったという確認が得られます。見たことがないものは知らないのですが,知らないことは見えないということもあります。
 ものが落ちることは誰もが見ていることですが,そこに引力を見たのはニュートンただ一人でした。風であったり,エネルギーであったり,引力であったり,見えないものをそれと見ることができると,楽しくなります。そのものは見えませんが,関連するものの動きや形を通して垣間見ることになります。同じことが人の態度や行動を通して,気持ちや感情という見えないものを推察する時にも起こります。いわゆる,読みです。
 後知恵という言葉があります。起こったことにあれこれ理屈を付けることであり,起こる前に分からなければ意味がないというニュアンスがあります。しかしながら,知恵というのは本質的に後知恵です。どうしてこうなるのかという疑問の形は,経過を時間軸に沿ってさかのぼることになるからです。そうかと分かったとき,次からは先知恵に変わります。先に生まれたものが経験知を持つから,先生と呼ばれるようになります。
 ところで,先生が知恵を語り授けようとしても,生徒の方は経験がないので,何の話か全く要領を得ません。聞いていても分からない,ということになります。それでも,一度聞いていれば、聞いたことがあるという知恵のかけらにはなるはずです。

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(2011年02月20日号:No.569)