《しあわせは 心の感度 研ぎ澄まし》

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 インターネットによる動員が契機となって,デモという意思表示のうねりが起こり,一国の支配関係があっという間に崩れ去ることが起こっています。かつては、デモを押さえ込むために生々しい動乱が起こっていましたが,今日では犠牲はあったようですが,あっけないくらいに淡々としています。考えてみれば,身近で起こっている選挙によって政権が交代するということも,意思表示の大きなうねりによるものではあります。そのプロセスが制度化されているか否かの違いがあるだけです。
 国を治める為政者が,特定の個人に固定されている場合は独裁となり,法に基づく地位だけが固定されて誰かが任期を務める場合は民主的となります。立場を利用した私利私欲が現れることがあれば,NOを突きつけられます。交代の多くはそうした背景があります。
 ところで,デモという意思表示は無条件に有効であるのか,心配さがあります。デモには熱狂が伴います。熱狂は暴走につながります。冷静さが失われた行動は,行きすぎてしまい,過ぎたるは及ばざるがごとしとなります。選挙前の政権選択に対するマスコミの風起こしも,冷静な公平性という面で不十分であるように感じます。
 マニフェストが絵に描いた餅になっています。思惑通りに行かないと思いながら,それほど言うならやってみたらという選択でしかなかったようで,熱に浮かされた結果だったと思い返しているようです。庶民は冷静に戻れば,理論やデータを持ち合わせてはいませんが,本能的に的確な状況判断をすることができます。おいしい話や不備を暴き立てる話が行き交っていますが,いつまでこんな浮ついた風潮に止まるつもりなのか,そろそろ終わりにしてもらいたいものです。
 建て前と本音が背中合わせであるのは想定内の了解であったのですが,建前を方便と言い除けてしまう愚かな言葉遣いは想定外です。建て前と本音を交錯しては言論は機能不全を起こします。つかず離れずきっちりと分離していればこそ共に機能できるという常識が失われているのでしょう。表と裏を区別しないことが今風の正直さと思う浅はかさによって,表裏がもつれてしまい,どちらが表なのか分からなくなっています。言葉が乱れていては,思考も乱れてしまいます。
 腑に落ちる話を聞くことがなくなりました。こちらの腑が古くなっているせいかもしれませんが,焦点のずれを感じてしまいます。一体何が言いたいのか,響いてこないのは寂しいことです。黙って話を聞いていると,眠くなってきます。キンコーンと光が走らないのです。錆び付いてきたのかもしれません。読書をしてリフレッシュしましょう。

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(2011年03月06日号:No.571)