《しあわせは 一つ一つに けりつけて》

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 車の流れが途絶えた時を見計らって,小走りに道を横断している人がいます。見ていると,道幅の4分の3ほど行ったところから,ゆったりと歩き始めます。同じ場面をこれまでに幾度となく見てきましたが,ほぼ同じパターンであって,渡りきるまで走り続ける人はほとんどいません。ほぼ渡ったという見なしによって,後は詰めをするだけという状況判断をしているのでしょう。最後まで走りきればいいのにと,何時も思います。
 道路の横断のことで,そこまで向きにならずともいいのではと思うのが普通なのかもしれません。道路上は危険な場所です。早く引き上げることが安全の最低条件です。ぐずぐずすると命取りになる可能性もあります。気持ちを緩めるのは道路端に着いてからにすべきだと思っています。
 横断は常に走りきるべきと言っているのではありません。車のいない道は歩いて横断すればいいのです。走って渡り始めて途中で気を抜くということが気になっています。行動パターンとして徹底していない曖昧さを感じてしまいます。そういう感性を持っていることを楽しんでいます。
 自分はそういう曖昧さを持っていないというのではありません。自分の中にある曖昧さを見ているようで,気になってしまうのです。人の振り見て我が振り直すという言葉の前提は,人の振りは自分の振りだということです。誰も人様のことをとやかく言えるものではありません。自分の身を正すことが不十分だから,いくつになっても精進する気持ちを持ち続けることが求められます。
 一事が万事という言葉に沿えば,仕事の途中で気を抜くことにつながります。一気呵成にやり遂げるのではなく,あと少しという段階で緊張を解くのは如何なものかと思うのです。創造的な仕事をする人が制作の際には閉じこもるという話を聞きます。緊張が途切れるとそこに微妙な不連続が挿入されます。熱中しているときに中断されるとやる気を損なわれるということも,同じです。
 電力不足で時間給電ということになると,仕事が中断されて,作業能率が低下することがあるはずです。物事が動くペースには慣性の法則が働いているので,変更したり復帰したりするためには余計な活力と時間を必要とします。仕事のけりを付けていくというパターンを守るようにしたいものです。

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(2011年06月05日号:No.584)