《しあわせは 偶然出会い 縁結ぶ》

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 無縁社会という言葉を折ある毎に語る一方で,逆に聞かされるようになってきました。何が失われていたのか,確かめる必要があります。有縁という宗教的な奥深さを秘めた言葉がありました。有縁は仏・菩薩に会い教えを聞く縁があること,無縁は前世に仏・菩薩と因縁を結んでいないことという対比があります。一方で,有縁は互いにかかわりのあること,地縁・血縁など深い関係があること,無縁は関係のないこと,地縁・血縁などの縁者がないことという対比もあります。
 ところで,無縁社会というときの無縁は,縁者でありながらかなり意図的に縁を絶っているという面がありました。親子の縁がありながら,まるで何の縁も無いかのごとく無視するという状況です。思えば恐ろしいことです。
 中国の漢詩に,『有縁千里来相会、無縁対面不相逢』
 (縁有れば千里も来たりて相会い、縁無ければ対面すれども相逢わず。)
という言葉があります。
 この言葉の意味は,「縁あれば千里を超えて会いに来る。縁がなければ、すぐそこにいても言葉を交わすこともない」ということですが,言い換えると,遠くに離れている人であっても,出会う必然があれば必ず出会う。近くにいても,側にいても,出会う必然がなければただ通り過ぎていくだけの人になるということです。
 この漢詩の中の縁というのは,人がどうこうすることができない必然的なものという意味合いを持っています。血縁,地縁という縁を想定するなら,その縁は無いことにはできないものということになります。それを無いことにできるというのは,考えられないことのはずです。
 今の人は縁といった訳の分からないものは信じられず,したがって存在しないと思っています。人とのつながりはすべて自由に選ぶものという考え方です。つながりが自分にとって有利であるかどうかを判断して,不利なら無視します。そこには二人の世界観は無く,一人の世界にしがみつく幼さが現れています。
 見つめている,見つめられている,必要としている,必要とされている,そのような相対的な関係の温もりを味わったことがないのかもしれません。寂しい意識であることに気付いてもらうように余計なお世話をしてやるべきです。同じ時代に生きているのも何かの縁ということで,関わってみてもいいのではないでしょうか。
 一期一会という言葉を受け継いでいます。茶道の精神性を説いた用語の一つであり,「今日の一会は生涯に二度とない会だと思い、主客ともに親切実意をもって交わることが肝要であるという心得を教えたもの」と語られます。そこには,縁というものを産み出そうという強い意志が感じられます。偶然の出会いを無理矢理に縁という必然に転化して,人のつながりを楽しみ慈しむという愛の表現があります。人間の能力に見合ったうぬぼれであるとは承知の上で,この精神性を途絶えさせないようにすることが,次世代との有縁になると思われます。

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(2011年06月12日号:No.585)