《経験の 一つ一つが 分かる糧》

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 何気なく子ども向けの番組を見ていました。視聴率について子どもに話して聞かせる場面で,「サンプルが少ないのにどうして見ている人の数が分かるんですか」という問が出ました。説明をしている視聴率調査会社のお姉さんが,「味見をするとき小皿に少し取って味を確かめますね。たとえ少しでも全体の味が分かるのと同じなんですよ」と答えていました。うまい話をすると感心しました。
 ところで気になることが一つあります。それは聞いている子どもに味見という体験があるかどうかということです。経験していればお姉さんの話を納得したでしょうが,暮らしの場から外されて育てられている子どもには何のことか分からないことでしょう。
 連れ合いが今年の冬に会津に出かけた折り,帰りの飛行機から富士山が見えたと喜んで帰ってきました。二人ともまだ富士山を足の下に踏みしめた経験がありません。ものの多さを伝えるときに,「積み重ねると富士山の何倍」という言い方がされます。富士山を遠くからしか見たことのない者には,分かったようで実感は伴いません。「東京ドームの何個分」と言われても,見たこともない者には皆目見当がつきません。
 契約金や売上額が語られるとき,何億とか何十億という額が耳に入ってきます。見たこともない,ましてや手にしたこともない額は想像の外です。まさにバーチャルな世界です。普通人にとって現実離れしている情報はただ通り過ぎるだけですが,そんな情報ばかりに接していると現実がつまらなく見えてくるようになります。人の感性は未だにバブルという化物に侵され続けています。
 連日のように人の命があっけなく奪われています。動機はたったそれくらいのことでいうものです。小さな不満や不安が過剰に意識されて追いつめられています。身の程にあった感受性を失っているようです。どうしてこんなに不安定な振れをするのでしょう。
 これがダメならもうお終いという短絡的な無思慮になるのは,仮想世界にありがちな特徴です。現実と仮想の違いは一つ一つの積み重ねがあるかないかということです。例えば,山に登るとき現実には一歩一歩登らなければなりませんが,仮想のテレビドラマでは場面変わって一瞬の間です。ちょっとした問題が降りかかっても,現実的になれば,避けたり対処する方法はいくらでも見つかります。
 自分の現実経験に沿った情報が,精神の糧として滋養あるものであるはずです。毎日の情報食卓にも栄養豊かなものを揃える工夫が必要なようです。

(2001年05月20日号:No.59)