《しあわせは 暮らしの色を 選ぶこと》

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 戦前戦後という時代の区分けにちなんで,災前災後という言葉を目にします。1000年に一度という津波の歴史の跡が見付かったという話も耳に入ってきました。東日本大震災をどのように受け止めるか,その論調をいくつか読んでみて,いろいろなテーマが出てきた中に,暮らしの質についての見直しがありました。バベルの塔の再来のように,行きすぎた豊かさへの警鐘といった受け止め方です。それはあまりにも悲惨な警鐘であり,警鐘を発する存在の無慈悲さを恐れるばかりです。
 資本主義的な経済は発展し続けなければならないものです。ならば,それは自転車操業と同類のものであり,停滞すれば倒壊することになります。物質的には十分に豊かであり,これ以上の発展は余計なことととして,ブレーキを掛けるなら,経済は落ち込みます。現状維持ですらできなくなります。経済をある程度の豊かさの状況に留め置くということは,できないのでしょうか。そういう経済理論はあるのかもしれませんが,部外者には分かりません。
 豊かさが生み出す結果に,人口の増加があります。江戸時代の耕作地の増加により人口が増えたそうです。養う力が高まるから人口も増える,増えるから養う力を増やさなければならない,その相互圧力が発展の後押しをしていると考えることもできます。少子化で人口が減ると,経済が縮小するという指摘もあるようです。少子化が人の思惑の結果であるなら,人の思惑は片寄るものであり,世の動きを無意図的に選んでいることにもなります。
 水は方円の器に随う,といわれます。世間の有り様が方円である時,人は方円に随うしかないという考え方もあります。どんなに意図しても,結局は世の流れに飲み込まれてしまうものというある種の諦観です。なるようになるものということです。思い通りにならないのが世間です。抗っても無駄,そういう声が聞こえます。どうしても人の意図を組み込みたいとするなら,法による強制を発動しなければなりません。その意味で,政府のリーダーシップへの幾ばくかの期待があるのです。
 世間の大きなうねりの中にも,ざわめきがあります。人は一人ひとり,世間の動きに乗りながらも,それぞれの思惑をざわめきとして選ぶことができます。自分にできる選択が何かを見極めて,自らの思惑を込めた暮らしをしていきたいと思っています。

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(2011年08月28日号:No.596)