《人は人 自分は自分 勝手でしょ》

 幼い子どもの絵を見て真っ先に感じることは,位置関係が全く無視されていることです。相対的な大きさはもちろん,上下左右の配置がでたらめです。家よりも大きな犬が空を飛んでいます。遠近もありません。自分とおかあさんの画では,足の置き場所である地面が描かれていないために宙に浮いた感じになります。絵としての評価は別にして,この共通線の有無はとても大事です。
 人の思いがすれ違うことはたびたび経験します。よかれと思ってもお節介であったり,何気ない一言が相手を傷つけたりします。さらに「いじめられていたのに学校は何もしてくれなかった」という恨みが社会に向けて暴発してしまいました。それぞれが抱いている思惑の違いであり,気持ちの通い合いができる共通線が欠けています。足下の基盤を同じにする共通線は何も絵の世界だけのことではないのです。生き方に絡んでくると事態は深刻になります。まだ確固とした生き方を持っていない子どもには,親が持っている共通線を持ち込んでやらなければなりません。
 もちろん親の足下が社会の常識とずれていれば,親子共々浮き上がってしまいます。自分の足下がお受験などの世間の風潮という波にさらわれていないかしっかりと確かめることが必要です。それをせずに自分の思惑に固執して相手を巻き込もうとするから,世間にトラブルを巻き起こすことになります。
 日常の暮らしにおいては,世代間の交流が途絶えて共通線が引けなくなってきました。そんな中で育った若者の一部には,価値観の多様化は「何でもあり」というレベルにまで低下してしまいました。親世代は不動の共通線を思い出し,子どもの絵に書き込んでやる意欲を失っています。今の社会をスケッチすれば,おそらく幼児の絵のように不可解な配置になることでしょう。「殺人の体験が必要であった」という不可解さは,足下が宙に浮いている不条理そのものです。最も大切な「人としての一線」という足下の常識線がない不気味さが漂ってきます。人生や子育てという絵には足下の線が不可欠です。
 
ホームページに戻ります Welcome to Bear's Home-Page (2000年5月14日号:No.6) 前号のコラムはこちらです 次号のコラムはこちらです