《しあわせは 生きる力を 発揮して》

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 ある研修会で,久しぶりに内容のある講演を聴きました。その中の一つに,「文明が人を無力化した」というフレーズがありました。便利になった一方で,人は能力をフル稼働しなくなったということのようです。今,力仕事の場合は別にして,日常の暮らしの中で,渾身の力を出すようなことはありません。身体が鈍っているということは,誰しも自覚していることです。力の発揮だけのことではありません。
 情報化の中で,考えることもしなくなっています。考える前にあれやこれや教えてくれるのです。そうかそうかと聞いていれば,分かったような気になりますが,自分で考えてはいないので,表面的な理解でしかありません。問い返されたら,説明できません。最近では,風評被害という現象にもその無力化が現れています。
 現在の暮らしは,分業化された仕組みで成り立っています。それぞれはかなり専門化されているので,誰でもできるというものではなくなっています。文明が機能不全に陥ったとき,原始生活以下になるのではという講師の指摘は,さもありなんという頷くしかないようです。確かに,自給自足という生きる力は,全く備わっていません。
 子育ての領域で生きる力というキーワードが行き交っています。その背景には,生きる力が衰退したという認識があったはずです。生きる力を回復するためにしなければならないことは,とりあえず体験であろうと計画が立てられています。体験とは,直に手足を使うというのが基本です。食べる物を手に入れるのに出前を頼む力は,生きる力の体験とはなりません。野や山に出て食材を手に入れる採取や狩猟をすることが,体験すべき事です。今更それが役に立つことでもないですが,生きる力の原点を味わっておくことには意味があるはずです。
 我慢する力の消滅もあります。些細なことで頭に来て,暴行に及ぶという愚行が頻発しています。感情の爆発を抑制する力がなければ,社会生活をおくることが難しくなります。不都合な摩擦をまき散らし巻き込むからです。震災で発揮された抑制の効いた振る舞いが本来の力を思い起こさせてくれました。まだまだ健在という証であり,これからの回復に期待が持たれます。
 文明による無力化は,快適さの過剰な追求によります。座ったままリモコンで操作するといった過剰な便利さは必要ありません。食べ残しをするような豊かさは必要ありません。生きるために使う時間と手間を極力削減してきたことが,無力な人を育て上げました。生きる人ではなく,生かされる人を目指してきたことが,功を奏しています。それが本当に仕合わせに通じる道であったのか,考える必要があります。

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(2011年10月02日号:No.601)