《しあわせは 違う人見て 自立する》

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 大学生が学食に一人で行くことができないという話があります。学食はグループで行くものであり,一人で行くと友達がいない寂しい人と見られるのだそうです。一人であることはいけないことと考えているのでしょうか。一人でいることだってあるさ,そういう開き直りがあってもいいと思いますが,当事者からはそういうことではないという反論が聞こえてきそうです。
 一人になるのが怖いという感覚は誰にでもあるでしょう。そこで,人は群れて社会を作ってきました。生まれるときは一人,死んでいくときも一人という現実があるように,一人であることを前提として,生きるためにつながりを持っています。四六時中ベタベタと誰かにくっついているのではなく,必要なときに必要な人とつながっていれば済みます。人のつながりを有るか無いかとディジタル的に判断するのではなく,つながったりつながらなかったりしているとアナログ的に考えないと,窮屈になります。
 一人であるという感覚は自立の要件です。若者はヨコの関係しか持っていません。そこには自分の分身が見えています。やがて,分身に取り囲まれていることに安心を得て,分身しか見ようとしなくなります。しかし分身とのつながりはさらさらしてはがれやすく,いつ切れるか分かりません。メル友といったつながりも,返事を遅らしてしまうと切れてしまうといった頼りなさです。分身に囲まれていては自分という感覚を持つことは不可能です。
 人のつながりはタテの関係が基本です。自分とは違う人が周りにいて,後を追うべき人や後を追われる人につながってこそ,自分意識を持つことができます。人の認識構造は,対比による認識が基本です。大きい人,小さい人,若い人,年取った人,速い人,強い人,しっかりした人,頼れる人,よい人,悪い人,その認識の基本には意識しているいないに拘わらず自分がいます。自分より大きい人,自分より強い人といった風です。その対比から,自分というものを認識することができます。分身相手にはその対比項がありません。
 分身ではなく他者がいる,そこに自分という認識が存在し,自分もまた他者の一人としての自立感覚が登場します。一人であることが当たり前になります。みんな違っていいのだということが納得できるのです。

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(2011年11月06日号:No.606)