《しあわせは 智慧の構造 見極めて》

Welcome to Bear's Home-Page
ホームページに戻ります

家庭の窓にリンクします! 家庭の窓

 人の生きていく道を照らしてくれるものが知恵です。知恵の構造を理解しようとすると,伝統の中に見つけることができます。仏語と呼ばれ一見宗教的ですが,結論ではなく考え方の筋道であれば,宗教色彩はないはずです。智慧を想起すれば,聞慧,思慧,修慧という三慧から成り立っているといわれます。聞思修慧とまとめられます。
 聞慧とは,授業や講演を聴いたり本を読んだりして,聞いたことや書いてあることを事実として知ることです。思慧とは,聞慧として身についた物事に関して,自分なりにそれらの間のつながりを考えて組み立てたり,自分の持っている知識と照合して,それらの背景を理解し納得できたりすることです。修慧とは,思慧として身についた物事に関して,きちんと説明できるように書いたり,それらをいろいろ応用して実践できるようにしたりすることです。英語だと,Three Wisdoms(?) = Listening,Thinking,Practicing という人もいます。
 知の恵みが食の恵と同じと考えると,摂取して消化して活力を発揮するという流れと重なり,ことさらに難解な構造ではないようです。教授する側に翻訳すれば,話して聞かせて,試験で考えさせ,応用実験で経験させるという一連の流れとなります。学習する側で見ると,教わったことを自分の言葉で表現して,誰かに話して分からせるというひとくくりのプロセスが想定されます。言い換えると,この一連の流れを完遂していない場合,知は智慧になり損なっていることになります。
 文章は起承転結という構成が基本です。文章は智慧の表現ですから,当然です。物事は部品や機能を単純に積み上げていくのではなく,組み合わせていくものです。言葉がつながって流れていくと,大きな智慧が描き出されます。そのことを忘れて,最近はぶつ切りの言葉が個々に脈絡なく流されているようです。これでは知識が雑学にとどまります。
 ネット世界では,検索という手段によって知識を集めることは簡単です。それをどのように組み上げるか,その設計指針を創造することが思考プロセスとなります。知識を精選して,論理という手続きに載せて,伝達できるとき,智慧として共有されます。
 智慧の三層構造が必要とされる要件は,智慧が共有されるべきものであるということです。自分にしか理解できない,実践できないものは,智慧とは言えません。なぜ三慧という形式が語られてきたのか,その必然性を想起しておかなければなりません。

ご意見・ご感想はこちらへ

(2011年12月18日号:No.612)