《用心を 忘れた社会 事故招き》

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 幼い兄弟が池に嵌まって亡くなりました。無念な不幸が悔しくなります。フェンスで立ち入り禁止の措置がされていたのですが,扉が壊されていたのです。少し離れたところには,「フェンスを壊さないで。子どもが池に落ちたり危険です」の古びた看板がぶら下がっているそうです。釣り人がフェンスや扉を何度も壊し,池に入るようになっているということです。
 兄弟の祖父は「なぜ扉が壊れてたのか。扉さえ・・・」と。一方で,「都心で釣りができる池がほとんどなくて・・・」と,事故の後,立ち入り禁止の池にいた釣り人は語っているそうです。事故の後,市はため池のフェンスを新設して安全を確保することになり,残っていた釣り場もなくなってしまいました。
 釣り人が立ち入り禁止の場所に入っていったり,河川敷での危険なゴルフなど,趣味人のプライドを失った愚行を時折見聞きします。自分の些細な行動が悲惨な事故を招くという配慮を欠くことは,ただ単に愚かであるということではなく,犯罪的愚かさです。
 愚行を糾弾するだけでは事故を防ぐことはできません。愚行を凌ぐ良行が発揮されなければなりません。健全な社会とはそういうものであるべきです。かつて,悪貨は良貨を駆逐するという言葉がありました。人間の性を言い当てているのですが,それを許して放置している社会は危ういものです。
 フェンスを壊す不届き者がいるのであれば,フェンスを修復しようとする者もいなければなりません。それは市当局の仕事と任せきっているとすれば,いささか甘えていることになります。身近な環境の安全整備を人頼りにしているのは仕方がないとしても,確認ぐらいはできるはずです。なにがしかの自己行動を持ち出すことは自己責任です。
 不幸な出来事は,いくつかの偶然が重なって起きるものです。偶然の連鎖をどこかで断ちきることができれば,不幸な結末に至らなくすることができます。連鎖を断ちきるのは,幾人かの用心という配慮です。放置したら危ないという用心が働いたとき,事故は回避されます。
 事故が起こってしまうのは,誰も用心をしていなかったということであり,それを不幸なことと済ませていては,住みよい社会は実現できません。ちょっとした用心,そういう気配りを失っている現状では,不用心な環境に住んでいることを覚悟しておかなければなりません。

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(2012年04月01日号:No.627)