《素の姿 豊かな厚着 みにくくし》

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 最近何かの弾みで曾野綾子氏の本を読みあさっています。店頭に出回っているのも,目についた要因ではあり,以前から共感している部分もあって,読んでみたくなった次第です。NPO活動で世界の貧しい地域を見聞されていることから来る物事を見る座標の原点が共感できるのです。世界に今ある貧しさと戦後の時代の貧しさとが通じているような気がするのです。社会とは必ずしも清く正しく美しいものではないという実感を大事にしたいのです。
 今の時代に不満を言っている声が贅沢に聞こえてしまったり,世迷い言に聞こえたりすることがあります。自分では何もしようとしない甘えた幼稚さに見えたり,人の心の裏にあるはずの影を見ようとしない幼稚さを感じるのです。人には妬みや嫉み,恨みなどの心情が強くあるということを前提にしなければ,人間関係を現実的に認識できないという見極めが大人の知性です。
 世の中の陰から目を背けることがよいことであるという教えは,とっくに破綻しているのに,勇気というか気概というか,負の感情を飲み込むほどの気力を蓄え損なった付けを,先送りにしています。ディジタル認識の蔓延とも言えます。人の認識はアナログです。義理と人情の板挟みなどは,ディジタルの世界にはあり得ないのです。
 人とはという問に対する二つの答え,性善説と性悪説,どちらもディジタル解釈では底の浅い結論しか出てきようがありません。そう単純に割り切れるものではないという事実は,古今東西の膨大な物語の存在が証明しています。多数決という形で意志決定をするしかない多様さが,人の本質であると認めるゆとりがなければ,人を語ることはできないようです。
 もっと確かなことは,自分自身がディジタル的な尺度で語り尽くせるかという自問に対する自答です。自分がいかに矛盾に満ちた存在であるか,その自覚に素直に従えばいいのです。自分は絶対的に善であるか,善人か悪人かのディジタル判定で善人と称して恥じないかということです。いずれの姿も,その場の弾みで,ひょいと表に出てしまいます。かーっとしてといわれる状態に嵌まると,普段からは想像できない行動をしでかします。それが人間というものであり,だからこそ支え合って生きていかなければなりません。
 対人関係では,相手を信頼するか警戒するかという選択を迫られます。絶対的な信頼は危険であるし,絶対的な警戒もまた危険です。ある程度信頼しなければ関わりが成立しません。ある程度警戒しなければ安心・安全を維持することはできません。生きていく上ではなるべく警戒する部分を少なくすることが望ましいでしょう。そうなるように努力をすることができます。悪い行動が,魔が差すとか,つい手を出してしまったとか,誘因があるということです。例えば,暗がりをなくせば犯罪が減るといった対応が可能です。悪の部分を封じ込めることを考えるべきで,悪の部分を無くそうとすることは不可能なのです。
 追い詰められたときに現れる本性から目を逸らさずに対処する,あるいは助長する知恵を持つことが,生きる力です。貧しさという状況は,言い換えると素の人間を認識する条件として機能しているのかもしれません。豊かさという厚着を着ていると,隠されてしまうというハンディがあることを,いろんな例を通して,曽野氏は教えてくれています。

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(2012年05月06日号:No.632)