《身嗜み 見られる自分 意識して》

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 クリニックの玄関脇にスタンド型の赤い吸い殻入れが置かれています。建物前の狭い駐車場に最後の空きを埋めた車がいました。高齢者マークのついた車でした。しばらくして,お年寄りが降りてきたので,クリニックに入るのかと思っていたら,車の灰皿を手にしていて,クリニックの吸い殻入れに捨てているようでした。自分の吸い殻を捨てるために,クリニックの吸い殻入れを利用するというせこい行動にあきれました。そういえば,似たような振る舞いをあちこちで見ることがあります。
 今度のお見かけした振る舞いは,いささか興ざめでした。古稀を過ぎたと見られる老爺が,ほめられない振る舞いをごく自然にしていました。お年寄りという存在は,長い人生の苦難をくぐり抜ける中で,品性が磨かれてくるから,尊敬を受けてきたのではなかったでしょうか。いわゆる長老という人が生き方の手本を見せるのが,人の集まりの姿でしたが,そんな光景はとっくに廃れたようです。
 年寄りがしてみせると,若者は真似をします。経験を積んだ知恵者の年寄りだってしているじゃないかという言い訳も持ち出します。人のせいにできる言い訳は,使い勝手があります。あまりほめられない振る舞いをしているお年寄りは,自分がそういった言い訳に使われているとは思いもよらないことでしょう。
 身嗜みを整えるためには,見られている意識が有効でしょう。身嗜みに対する警告となる恥ずかしさは,見られていると思うときに湧きあがってきます。誰にも見られていないと思えば,恥ずかしいとは感じません。天知る地知る己知るという言葉には,知られているということが優先されています。見られることが有効であるという経験知です。
 人目を気にしすぎては窮屈ですが,かといって,気にしすぎないのもどうでしょうか? 社会生活をするためには,相対化した価値観を持っていなければ,何かと不都合な事態を招きます。最近の傾向として,モンスター何とかという輩が登場しているのも,傍迷惑な自分が見られているという相対視の欠落があります。
 人の振り見て我が振り直せ。人が望ましくない振る舞いをしているのを見て嫌だなと感じたとしたら,同じことを自分がしたら人から嫌だなと思われるはずであり,そう思われたくないので,望ましくない振る舞いをしないでおこうと,心に決めます。逆に,人が望ましい振る舞いをしているのを見て素敵だなと感じたら,自分も素敵に見られたくて,望ましい振る舞いをしようと心掛けます。
 人のつながりが希薄になると,見ず知らずの人は人とはみなされなくなります。見られているという気にはなりません。旅の恥は掻き捨てと同じ状況です。見られても気にならないとなると,我が儘な振る舞いが噴出するだけです。それぞれが勝手気ままな振る舞いをして,それぞれが住みづらい社会にしています。自分たちの傍若無人な振る舞いが寄って集って自分たちに振り返ってきています。
 このような世間にしようと思っていたのではなかったのですが,正直に言えば,どのような世間にしようなどということは考えたこともなかったのかもしれません。なるようになってきただけでしょう。自分のことしか考えず,社会のありようなどというものは他人事として放置してきた付けを受け取る破目に陥っているようです。

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(2012年06月24日号:No.639)