《早起きし 元気に動き 健康に》

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 テレビから,健康食品というかサプリメントというべきか,お勧めのコマーシャルが流れてきます。聞くともなしに聞いていると,不思議な論法が採用されています。健康に必要なある種の成分を摂取するものという効能が説明されます。公共のある機関が定めた成人が1日に摂取すべき量を,食材で摂ろうとするととても食べきれないほどの量になると示した後で,これなら一粒,一飲みで簡単に摂れるという説得をしています。
 コマーシャルの仕方としては,それで不都合はなく,それはいいと思わせることができているのですが,気になってしまうのが,言っている内容なのです。普通の食事によって摂取できそうもない量を,公共の機関が定めているというのが,引っかかってしまいます。ことの真偽を確かめるために踏み込むことはしませんが,健康と食事の関係をどのように考えたらいいのか,疑問を持つことにします。
 普通の食材で必要量が摂取できないということが事実であるなら,現代人の食事内容が必要な栄養分を摂取できないものに変わってしまったと考えるか,古来ずっと人は摂取不足で生きてきたということになります。後者であるなら,何を持って必要量という基準を設定したかという疑問が続きます。食材でまかなえない必要量というものに,意味があるのだろうかという不思議は解けません。前者であるなら,作物ではなく,古代人が摂取していたであろう自然の食材を取り戻さなくてはなりません。量的に自然物は足りないでしょう。
 健康に必要な成分は,たとえ特定の器官の機能にかかわる成分であっても,単一ではなく,複合的なものであろうと想像します。口から胃や腸に移動する中で吸収されて運ばれていくプロセスには多様で多重の反応を経ていくはずであり,その都度の段取りを左右する成分が付加されているはずです。その他の支援成分も含めて,それらの配合のバランスも満たされるべきでしょう。そう考えていくと,どうしても,ある成分のみ濃縮して摂取するということの不自然さを感じます。
 健康について,似たようなことが他にもあります。運動不足を解消する器具があります。そんなことをする暇があれば,掃除でもしたらと思います。生活の場には動くことがたくさんあります。家のことをしていたら,運動不足になるはずがありません。運動する器具をわざわざ必要とするのは,生活をしていない人でしょう。運動選手としての機能向上をするのならいざ知らず,一般人の運動不足は意味が分かりません。
 人は動物であり,動いてこそ生きていることになります。動かないことが楽であり便利であるという退化傾向は,精神の堕落です。生きることに努力しなくなるということは,不健康という路線に沿った死への道に旅立っていることになります。食べて動いて寝て,身体をフル稼働することが健康であるために成すべきことでしょう。健康だから動けるのではなくて,動き続けるから健康になるのです。人間に備わっている機能を信じてみてはいかがでしょうか?

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(2012年07月15日号:No.642)