家庭の窓
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コーヒーを飲もうとして,インスタントコーヒーと砂糖をカップに入れ,電気ポットからお湯を注ごうとしたら,ブルブルッという音がするだけでお湯が出てきません。ポットの中が空になっていたようです。蓋を開けて確認すると,そこにかすかにお湯が残っているだけです。水を補充しながら考えました。連れ合いはとりあえず必要な分を入れて湧かし,用が済んだ後にさらに満杯に補充していたな,と思い出しました。その方が待ち時間が少なくて済みます。
その二度手間はしたくないので,満杯まで補充します。待ち時間は大して伸びるわけではないので,しなければならないことは一回で済ませておくという好みを押し通しました。自分のコーヒーなので,自分の気持ちを通すことができます。もしも,お客様にコーヒーをお出しするときであったら,必要な分を補充して早く湧かそうとしたことでしょう。お待たせすることが失礼になると思うからです。もっとも,お客を迎えるときには,予めお湯の量の確認をしているはずなので,想定外のことは起こらないでしょう。
ポットの外側に湯量が分かる透明の管がついているので,気をつけていれば,少なくなったときには分かるはずです。しかしながら,気をつけていない,見ていないという状況では,湯量計は機能を発揮できません。湯量計は律儀に伝えてくれているのに,使用者には伝わっていないのです。気をつけていないから,その報いを受けるのは,使用者本人です。広い意味でと断る必要もなく,単純に使用者責任の齟齬です。
ところで,ポットのお湯の管理者は誰かという面で見ていくと,使用者ではなく,管理者の責任が問われることになります。家事という私的な領域であっても,管理役を誰かが務めなければ円滑な生活は営むことが適いません。連れ合いの軽い機能障害を補填するために,ある程度の管理を請け負っているのですが,その面でも見落としをしていたということになります。
物事には,必要なときにすればいいことと,予めしておかなければならないことがあります。前述のお湯を沸かしておくといったことについては他の選択はできませんが,連続した行動であるときは,どこで準備状態とするかが,選択の自由となります。その日の仕事を終えるときに,きりのいいところで終えておくという選択と,明日の準備まで踏み込んで終えるという選択があります。今日も終わったとするのか,明日のはじめに気持ちを向けておくのか,どちらを習い性にしているかで,ことの成り行きに差が出てきます。
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